LOG

心は歪み、根は腐る

 懐かしい夢を見ていた。もう何年も昔の話だ。
 生まれたばかりのあたしは体があまり強くなくて、東京の空気が合わなかったのもあり、しばらくのあいだ母方の実家で過ごしていた。田舎らしく不便ではあれど空気はすごくおいしくて、結局あたしは就学直前までの数年を徳島県の北部で送ったけれど、悲しいかな、生後間もなくよりはマシとはいえ、体が丈夫になることはなかった。今でも定期的に体調を崩すし、精神的なものも相まって入院することも珍しくない。
 そうして、数年ぶりに東京に戻ってからしばらく。お父さんの仕事の関係で知りあった男の子と――今では幼なじみと言えるまでの付き合いの長さになってしまったけれど――散歩がてらに出かけたとき、あたしは彼とはぐれて迷子になってしまったのだ。
 理由はよく覚えてない。大方、新作ゲームの話につられてふらふら歩いて行ったんだと思う。
 見慣れない土地、知らない人に囲まれたなかで一人になって、当時のあたしはまるで出口のない迷宮にでも放り込まれたような気分になった。もう一生家には帰れないんじゃないか、お父さんにもお母さんにもお姉ちゃんにも会えないんじゃ、そんな不安ばかりが頭をもたげ、すぐに涙腺が緩んでしまう。怖くて怖くて仕方がなくて、今にも崩れ落ちそうなくらい足が震え、立つのもままならないほどだった。
 とうとう耐えきれなくなって大粒の涙を流し始めた頃、ふと頭上から声がかけられる。
 ――どうしたの? 大丈夫?
 ひどく優しい声だった。あたしとそう変わらないように見えたその男の子は、泣きじゃくって何にも言えないあたしの言葉を辛抱強く待ってくれる。グズグズと、涙に詰まりながら話すことなんて支離滅裂もいいとこだろうに、うん、うん、と何度も頷いて、落ちつくまで一緒にいてくれた。
 ――そっか、迷子になっちゃったんだな。大丈夫だよ、俺が一緒に探してあげる。
 ――ほんと?
 ――もちろん! そうだ、君、名前は?
 にっこりと、太陽のように笑う彼は、あたしの不安を全部優しく片づけてくれた。よしよし、と頭をなでられて、少し心が楽になる。ぎゅっと繋がれた手のひらは、年なんてそう変わらないのに、ひどく大きく、頼もしく思えた。
 あたしがなんとか名前を伝えると、彼は大きく頷いて歩き出す。はぐれた相手を探してくれるつもりらしい。
 ――お兄ちゃんは?
 自分だけ名前を知られているのはなんだかむず痒いし、何よりこちらも名前を呼べないのは不便だ。そう思ってあたしが訊ねると、彼ははたと目を瞬かせながら、にっこり笑って答えた。
 ――俺か? 俺の名前は――――




「――あ、監督。目ぇ覚ましたみたいっすよ」
 ふる、とまぶたが震える。目を覚まして一番に広がる光景なんていつも決まったものだった。見慣れた自室か、それとも無機質で真っ白な病院のそれか。たまに他人の家に転がり込むこともあったけれど、そういったときは天井を眺める余裕なんかなかった。
 ぼんやりした頭で思考をめぐらせながら、気だるい気持ちで目を開けたのに。今あたしの両目が捉えたのは思い描いたどれでもなかった。
 あたしのことを案じてくれているような、けれどもどこか浮ついているようなピーコックグリーンの双眸がある。ゆるく垂れ下がったそれは人の良さを示しているようで、ひと目見ただけで悪い人じゃなさそうなのがわかる。こういう人に限って猟奇的な欲望を秘めていたりもするのだけど――なんとなく、この人は違うと思った。根本だけ色を濃くした茶髪も、瞳より青みの薄いブルゾンも、なんとなく、本当になんとなくだけれど、この人をそういった浅ましいものから遠ざけさせているように思う。良く言えば人畜無害、悪く言えばヘタレとでもいうふうな。どこかで見たことある気がするのは、この人も春組紹介のテレビに出ていたからだ。
 背中の感触を思うに、おそらくあたしはソファにでも寝かされているのだろう。後頭部にあたるクッションはふかふかで気持ちいいし、かけられたブランケットも肌触りが心地良い。程良い眠気に誘われつつ、とりあえずの疑問を掠れた喉で吐き出した。なんとか声は出るみたいだ。
「……あれ、ここ、どこ」
「MANKAI寮。の、談話室。うちの前で倒れたからって、監督と咲也がここまで運んでくれたんだよ」
「――あ、」
 そうだった。じわじわと蘇ってくる記憶を鑑みて、あたしは今すぐ消え去りたいような気持ちになる。勝手に後をつけて、初対面の人に醜態を晒して、そうしてこんなところで寝こけていたなんて、間抜けかつ無作法にも程があるじゃないか。
 あたしが両手で顔を覆いながら呻き声をあげると、この緑の人は小さく笑いをこぼしながら、ソファの肘置きで頬杖をついていた体勢から少しだけ乗り出す。大きな手のひらがあたしの額に伸びてきて、ひた、と温度を計るように触れた。
「うん、熱とかはないっぽいな。起きられるか?」
「はぁ……いや、はい。えっと――」
「皆木綴」
 見たことある顔のはずなのに、咄嗟に名前が出なかった。緑の人――もとい、皆木さんは、綴でいいよと付け加えながら、あたしの背中を支えるように起き上がらせてくれる。簡単に自己紹介と経緯を話すと、ずいぶん思い切ったことするな、と感心したようにつぶやいていた。
 程なくして、ぱたぱたと音を立てながら監督さんがやってきた。大丈夫!? と心底案じたような様子で、さっきの綴くんと同じように額に手を当てたり、気分はどう、何か飲むか、家には帰れるかどうか、そんなことを矢継ぎ早に訊ねられる。
 そんなに質問攻めじゃあ答えづらいっしょ、と綴くんが助け舟を出してくれて、ようやっと監督さんは我に返ったようだった。
「ごめんね。目の前で倒れられちゃったし、なんだかすごく苦しそうにしてたから、つい……」
「とんでもないです。あたしこそ、いきなりこんなにお世話かけちゃって……ごめんなさい」
 あたしが深く頭を下げると、監督さんはぶんぶんと頭を振ってあたしの顔を上げさせる。本当に気にしないで、と笑う様はさながら聖母のようにも見えて、胸の奥に溜まった鉛をころりと転がすようだった。
 ――どうしてあたしは、この人にあの女を重ねてしまったのだろう。どうして似てると思ったのだろう。何にも似てないはずなのに。こんなに優しい人なのに。今だってほら、あたし、あの女にこうやって優しくされたことなんかない。いつもあたしをぐちゃぐちゃに踏みつぶすみたいに扱って、どろりとした様子であたしを玩具みたいにする。何をやっても貶してくる。何を始めても突っかかってくる。そうやって土足で踏みにじられる日々を送っていった結果、やがてあたしは大切なものほど人に隠すようになった。
 なんとなくそわそわと体を揺らす監督さんを目にとめて、あたしはようやっと自分が不躾に彼女を見ていたことに気がついた。ごめんなさい! と再び頭を下げて謝罪すると、やはり監督さんはあたしの頭を上げさせて笑う。
「オー、きっと彼女はカントクにイボ出てしまったダヨ」
「は……?」
「イ、イボ? ……見とれて、かな?」
「それダヨ!」
 美しい女性は、何年経っても見飽きることはない――監督さんの背後からひょろりと顔を出し、そう力説する彼はシトロンさんだ。この間のテレビではマスクで顔を隠していたからわからなかったけれど、この特徴的なカタコトと消去法で多分そうだろうと思い至る。春組は顔面偏差値の暴力だな、と心の片隅で思った。
 シトロンさんの天才的な言い間違いを訂正する監督さんは、きっととっても頭が柔らかくて、そして機転の利く人なのだろう。だからこそMANKAIカンパニーを建て直すにあたっての総監督兼主宰という重圧を、こんな若さで担うことが出来るのだ。
 ――総監督兼主宰。そんなに大仰なものを背負っているのは、まだ大学を卒業してそう経ってなさそうなお姉さん。にこやかで、細くて華奢で、でもどこか強かそうな、けれどもたった一人の、ただ一人の女の人だ。
 重たくないのかな。なんとなく浮かんだ疑問を口に出来るほど、あたしは監督さんと親しいわけじゃないし、というかただの初対面、つまり正真正銘の部外者だ。こんなことを思うだけ場違いで、はたまたすごく失礼なことかもしれない。何も言えないまま無意識に下唇を噛んだとき、シトロンさんと不意に目が合った。人差し指で自分のくちびるをとんとん、と叩きながらいやに艶っぽく微笑むシトロンさんにつられて笑うと、彼は再び無邪気そのものの笑みに顔を変えた。
「ところで、なまえはいったい何のためにやってきたネ?」
「あっ――」
「そういえば……なまえちゃん、何か用があってうちに来てたのかな? 中の様子を気にしてるようだったし……」
 心臓が悪い意味で逸る。さっき綴くんに話したときは「会いたい人がいる」といってぼかしたのだけれど、こうもメンツが揃ったうえ、みんな心当たりがないとなるともはやバレたも同然だ。つい背後の綴くんに目をやると、苦笑いといったふうに肩をすくめて目を逸らされた。
 居心地が悪い、けれど、すぐに立って歩けるほど回復しているわけでもない。どうしよう、と頭をぐるぐる巡らせていた頃、遠くのほうで玄関扉の開く音が聞こえてきた。かすかなそれを捉えたのはあたしだけなのだろうか、他のみんなは特に何か反応を示す様子はない。
 どくん、と耳のすぐ隣で鳴り響くような鼓動の音を聞きながら、あたしは深呼吸をする。
「ただいま。……あれ、みんな集まってどうしたの?」
 途端、胸が甘ったるくざわつく。体温がかっと上がって、ぶわりと汗が吹き出す。聞き慣れたはずのその声は、けれどもマイクを通してないぶんなんだか新鮮な気もした。
 すた、すた、規則的な足音が、とある地点でぴたりと止まる。同時に後頭部に視線が刺さるような感覚を覚え、あたしはゆっくりと、意を決して振り向いた――ことを、後悔した。
「……なんでお前がいんの?」
 ひどく冷たい目をしていた、と思う。無関心という名の氷で覆われた彼の瞳は、その凍てつく温度でもって、あたしのことを刺すようだった。
 別に、あたしたちはそれほど定期的に顔を合わせていたわけではない。お互い出不精だったこと、目的がゲームであったことから交流といえばSNSかLIMEか通話か、とにかく電波という見えない糸を介してのものばかりだったのだ。だから、付き合いこそ数年になるけれども、顔をつきあわせて話すなんてそれこそひと月に一度あるかないか、といった頻度で、別に見慣れた顔というわけではない。
 なのに。それでも。わかるのだ。否、だからこそよくわかるのかも。あんなに慈愛と優しさを湛えていたはずのローズピンクは、熱なんて微かもないくらい、他人を突き放すような色をしてあたしたちを見ている。
 ――訂正しよう。突き放されているのはあたしだけだ。きっと、あたしがいないときのこの人は、ここにいない咲也くんや碓氷くんに対してだって、こんなに冷ややかな目で見てきたりしない。もっと、そう、かつてのあたしが当たり前だと思っていたような顔でにこやかに笑うはずなのに――
 あたしたちの異様な空気を感じ取ったのか、監督さんたちがひく、と怯むような気配がする。至くんもそれは同じなのだろう。あたし以外のメンツを一瞥して、そっと踵を返していった。おそらく部屋に戻るのだ。
 至くんの背中が見えなくなった頃、あたしは張りついたような喉を震わせる。
「……かえります」
「えっ!? ……あ、えっと、至さんに何か用事があったんじゃあ」
「いいんです。ごめんなさい、公演を控えて大変なときに押しかけちゃって」
「まだ顔色悪いけど。そんなんで帰れんのか? せめて雨が止んでからにしたほうが――」
「大丈夫。……大丈夫です、本当に」
 顔を上げて笑ってみせる。この場にいる監督さん、綴くん、シトロンさんの3人も微笑みを返してはくれたけれど、みんな瞳の奥に悲痛な色を滲ませているように見えた。
 ――あたしのせいだ。あたしのせいで、こんな顔をさせてしまった。
「ごめんなさい、多分、もう、来ないので」
 綴くんから荷物を受け取って立ち上がる。一瞬立ちくらみを覚えたけれど、悟らせてはいけないので既のところで耐えた。大丈夫。大丈夫だ。隠すことには慣れている。ゆっくりと玄関まで歩いて行き、3人からの見送りを受けながら、あたしは雨の中へ踏み出した。パラパラと雨粒が傘を叩く。
 何をやっているんだろう。何がしたかったんだろう。会いたかったのは本当だ。もう一度話をしたかったのもそう。ごめんなさいって謝って、また一緒にゲームをして、夜通し盛り上がったりして、そんな毎日をまた送りたかっただけなのに。劇団の皆さんに迷惑を書けた挙句に何もかもが失敗だなんて、本当にあたし、あの女の言う通り出来損ないのグズじゃないか。
「……バカみたい、」
 名前すら呼べなかった。呼ばせてもくれなかった。あれは紛れもない“拒絶”だ。あたしはもう、至くんの人生から弾き出されてしまったんだ。
 雨粒の音は鳴り止まない。ずっとずっと、けたたましいようで柔らかな音を響かせている。せめてもっと煩ければ雑念も消し去ってくれるだろうに、中途半端に静かで、中途半端に優しくて、中途半端に激しいから、あたしの心を掻き乱す。
 傘を覗く物好きがいないことを祈りながら、あたしは小さな壁の下、声を殺して嗚咽を漏らした。ふらつく足元に溜まるのは、水たまりの形をした後悔ばかりだ。

20180714
- ナノ -