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恵みの雨

 ゲームとはまず楽しむもの――それがあたしの信条だった。
 窮屈な日常において、大好きなゲームを逃避に使っていたことは認める。どうにもならない家族に囲まれて過ごす毎日なんて、息が詰まって仕方がないもの。どこにも逃げ場なんかない。助けてくれる人なんかいない。そんな日々を送るにあたり、あたしはゲームという非日常に逃避を求めるようになっていった。
 ゲームをやっているときだけは、あたしはあたしじゃなくなるんだ。お嬢様でどうしようもないみょうじなまえなんかじゃなくて、たとえば円卓の騎士だとか、前世の記憶を持つ少年だとか、双子の兄を探す男の子だとか。その没入感を欲していたから、あたしは特にファンタジーもののRPGを好むようになっていた。
 けれどもきっかけがどうであれ、あたしはゲームを「作業」にすることが至極苦手だった。レベリングにも楽しみを見出したい。マラソンだって笑いながらやりたい。イベントのフラグを建てるためだって、はたまた2周目が本番のゲームをやるときだって、1周目をちゃっちゃと終わらせるような、ただの作業になんかしたくはなかった。何をやるのも楽しんで、精いっぱい努力してやりたかった。それが、あたしのゲームに対する誠意だったのだ。
 だけど。
「なまえさ、そんなんで疲れない?」
 今ならわかる。その言葉に深い意味がないこと。むしろあたしを気遣うようなつもりで言ってくれたことも、冷静になった今なら痛いほどにわかるのだ。どれほど上辺の付き合いをやろうとしても、その根底にある優しさと情の深さは、言動の端々から伝わってきていたから。
 ヘッドセット越しに聞こえてきたその声は、いつもと変わらぬ淡々とした調子で純粋な質問を投げかけてくる。なにが、とあたしが答えると、何がじゃないだろ、と少し苛立ったような口調で返された。
「お前のゲームのやり方。そんなに何でも全力でやってたらガス欠起こすよ」
「え〜……でも楽しいよ、それこそ物語の主人公になれたみたいでさ」
「……まあ、お前は感動屋だからな。そうやってのめり込めるのは長所だと思うけど――」
 言いかけて、やめられた。あたしが続きをせっつくように言うと、もごもごと口ごもって躊躇う。
 きっと言葉を選ぼうとしてくれたのだ。軽はずみな一言で傷つけてしまうのかもしれないと、それを危惧して彼は黙った。ううん、と迷うように咳払いをする音を、あたしは手元に意識を集中させながら聞いた。
「あんまりやりすぎると、楽しめなくなって本末転倒じゃない」
 ――かちんときた、というのは、このときのあたしの心情を表すために出来た言葉なのではないか。そんな錯覚を起こしかけるほど、あたしは一瞬で頭に血が上った。
 タイミングも悪かったのだと思う。そのときはちょうどハマっているゲームの周回プレイ中だったのだけれど、初回よりも難易度を上げて進めていたために大型モンスターに詰まって苛ついていたのだ。オンラインで共闘が可能な作品であり、今まさに彼と通信しながら攻略していた。しかしモンスターの強さによってお互い余裕をなくしつつあり、普段ならしないようなミスと、高倍率の攻撃をキャンセルするタイミングでのフレンドリーファイアが目立つ。きっと彼とて例外ではない。彼もまた苛立ち混じりだったからこそ、いつもは言わないような“らしくない”ことを言ってしまったのだと思う。
 何度も何度も倒され続け、いくらプロのドMと言われているとはいえムカつくものはムカつくし、うまくいかないと溜まるものがある。そんな、最悪に最悪を重ねたシチュエーションに落とされてしまった爆弾は、きっと普段ならありがたく受け取れる言葉だったはずだ。
「……なにそれ、あたしのことナメてるの? 下手くそだって言いたいわけ」
「そうは言ってないだろ。適度に息抜きが必要だってことだよ」
「別に、今のままでもうまくやれて――」
 ――あ。そう言う彼の声が耳に入ったときにはもう遅かった。長時間プレイと口論のおかげで集中力が切れていたのだ。彼の誤射で動けなくなったその瞬間、あたしの操作キャラはモンスターの攻撃を受けてやられてしまった。ちょうど耐久値もゼロになってしまい、戦線復帰は不可能。このあとはただ、戦う彼の様子を眺めているだけだ。
 あたしが倒れるきっかけを作ってしまったことに動揺したのか、彼もまた続けざまに攻撃を食らって倒れてしまう。またミッション失敗だ。基地に戻ってきても、お互いまったく動こうとしなかった。
「…………ない」
「は?」
「至くんとゲームしても、全ッ然楽しくない……!」
 最低な言葉を吐いた。付き合ってくれていたのは彼のほうなのに。他に何人ものフレンドがいて、5桁のフォロワーもいて、仕事終わりで疲れているのに、いくつも選択肢があるのに、わざわざあたしとゲームをやることを選んでくれたのだ。
 気づけなかった。余裕がなかった。そんなの全部言い訳だ。彼の厚意にあぐらをかいてひどく傷つけたのはあたし。あたしが悪いのだ。
「――そうかよ。じゃあもういいわ」
 だからこうして彼が怒るのも仕方ないこと、当然のことだ。
 彼とは――至くんとは、もうそれっきりだった。



 天鵞絨駅から降りた直後、予報通りに降ってきた雨を、鞄に忍ばせておいた折り畳み傘で受け止める。ぱらぱらと音を立てるそれに背筋が冷える心地を感じながらも、あたしは下校からまっすぐ、適度に距離を保ちながら、紺色の傘と細い背中を追っていた。
 ああ、これが晴れの日ならもう少しマシに尾行できただろうに。そんなことを思いながら、電車を降りて住宅街へ足を伸ばした標的を――碓氷くんをつけていく。雨のおかげで人影もまばらな帰路の途中、ふと横切った劇場が、碓氷くんたちの所属するMANKAIカンパニーであるはずだ。
 幸か不幸か、いつもと変わらずヘッドホンで歌を聴きながら下校している碓氷くんは、雨の音も相まってあたしに気づいていないようだった。否、もしかするとあたしをおびき寄せるためにわざと隙を見せているのかもしれない。ゲームでもよくある展開だ。だからこそ、曲がり角に差し掛かるときはそれまでの数倍気を張って進んだし、こっちを振り返りそうになるたびに適当な道へ入って誤魔化した。碓氷くん、本当に気がついてないのかな。あんなにファンの子がいて、劇団にも入って、きっとこれからもっともっと彼に熱を上げる人は増えるだろうに、こんなに無防備になってるんじゃあ、これから先どんな事件に巻き込まれるかわからないよ。人生をぐるっと変えてしまうような出来事なんて、普段なら見逃してしまうようなところに、はたまたそこらじゅうに転がっているものなのだから。経験者は語るってやつ。それにほら、何年か前に天鵞絨町でもひどい事件があったでしょう――
 赤の他人にも等しいクラスメイトに要らぬ心配をしているうちに、遂に彼はとある建物に入っていった。住宅街の片隅に鎮座する邸宅は見上げるくらい大きくて、とても立派な造りをしている。ところどころ年季が入っているような様子も見受けられるが、それはそれでこの住居の風格や味を醸し出しているように思えた。決して派手ではないけれど、かと言って地味だとか見劣りするとかそんなことはない。作り手の趣味とセンスを感じさせる見事なものだ。
 なるほど、これが団員寮というやつか。こんなに立派でしっかりしたものであるなら、おそらく20人は共同生活が可能なように思う。今は春組しか集まっていないんだっけ、だから少しだけ侘しさを感じさせるのだろうか? 雨が手伝っているところもあるのかもしれない。けれどこれから団員が揃っていけば、きっとここは笑顔の耐えない、素敵なお城になるのだろうと思う。
 実のところ、彼のあとをつけて至くんにつながる手がかりが見つけられるのか否か、そこは半分賭けのような気持ちだった。もしかすると今日は稽古がお休みかもしれないし、引っ越したとはいえ至くんがここに入寮しているかどうか、稽古にきちんと参加しているのかも確証はない。どうしてそう思うのかって、なぜならあたしの知る至くんと劇団というものが、どうしても結びつけられなかったからだ。もっとも、至くんについてあたしが知ってることなんてきっとミリしら程度のもので、もしかすると本当はずっと、劇団というものに憧れを秘めていたのかもしれないけれど。
 仮にたどり着けたとしても、碓氷くんに、至くんに、もしくは劇団の人に見つかってこっぴどく叱られてしまうかも――それでもあたしはやるしかなかったのだ。ケンカのあと程なくして引っ越してしまった至くんと、どうしてももう一度会いたかったから。
 ストーカーと何ら変わらないおのれの行動に再び背筋を冷やしつつ、あたしは建物の様子を窺う。ここからは何も考えてなかった、というわけではないものの、何か作戦を立ててきたのかと言われたら、その問いにもまた首を横に振る。運良く咲也くんか至くん、それでなくても人の良さそうな誰かが通りかかってくれたなら、そして、あたしを見かけた通行人に不審者として通報さえされなければ、全てうまくいくと思うのだけれど――!
「あの、どちら様でしょう」
 ――来た! 背後からかけられた声に、跳ねた心臓をなんとか落ち着かせながら振り返る。そこにいたのは怖い警官でも咲也くんでもない、なんてことないお姉さんだった。淡い水色の傘がなんだか印象的である。
 お姉さんはゆったりと流した焦げ茶の髪に大きな瞳の美人で、溌剌とした気質が立ち姿から見て取れた。けれども気安そうな雰囲気とは裏腹に、彼女とだぶつくとある女の存在があたしの脳内を揺さぶる。
 途端、あたしの意志に背いて足がすくむ。声が引きつる。視界がぐらりと揺れた気がした。
「あ、えっと、あたし――」
「お客さん、ですか? ……そういえばその制服、花学の……?」
「――」
「……? ――たいへん、真っ青じゃない! 大丈夫!?」
 ひどく優しい人だと思った。同時に、可哀想なくらいお人好しだとも。
 いくら子供に見えるとはいえ、こんなに怪しい女になんか、普通ここまで親切にしないでしょう。制服なんてその道の店さえ掴めば簡単に手に入れられるし、ちょっと童顔なことを利用すれば、成人女性だって高校生になり済ませる。そうやって法律の罠をくぐるような作品なんかこの世にはごまんとある。なのにこの人、こんなにまっすぐあたしを見る。あたしのありのままを見るように、あたしに手を差し伸べようとしてくれる。
 あいつに似ているような人なのに。どこかあの女を彷彿とさせるのに、心根は正反対なほど優しくてあたたかい。だぶつかせたことを謝りたくなるくらい、本当に、本当に良い人なのだと思った。
 ごめんなさい、大丈夫、そう言おうとしたのに、喉が貼りついて声が出なかった。あの女が見ている気がする。あいつが、今にもあたしの首に手をかけようとしているのかも。そんな幻覚にも似た何かに囚われて、意識が遠のく気さえする。
 傾いでへたり込むあたしを受け止めて、濡れることすら厭わず、この人は何度も声をかけてくれる。大丈夫? 聞こえてる? 歩ける? どうしよう! そんな気遣わしい声が響く。ああ、本当に、良い人なんだな。木霊する優しい声に、なんだかひどく泣きたくなった。
 そのときだ。
「カントク……? どうしたんですか?」
 ぱしゃ、ぱしゃ、水たまりを踏みながら駆け寄ってくる音がする。聞き覚えのある声だ。あたしは、この人を知っている。
「咲也くん! あのね、この子が急に具合悪くしちゃったみたいで……」
「そんな……って、あれ、なまえちゃん? どうしてこんなところに――」
 ――咲也くんだ。
 ああ、優しい人のところには優しい人が集まるんだな。男の子には似つかわしくないような、やけに可愛らしい桜色の傘をあたしたちを守るように差し出してくる咲也くんは、カントクと呼ばれた彼女となにがしかの話をしている。おおよそ、怪しい子じゃないとか、知り合いだとか言って、あたしのことを説明してくれているのだろう。
 咲也くんは自分のものに加え、カントクさんとあたしのぶん、つまり3人分の荷物を抱えてその場を立った。彼は差し出してくれていた傘を自分のほうに戻し、代わりにカントクさんの傘が雨を防いでくれる。落とした折り畳み傘のほうは、咲也くんがもたつきながらも丁寧に畳んでくれているのを目の端で捉えた。
「とりあえず、中に入って。落ちつくまで休んでいってね」
 こんなに優しい声なのに。どうやっても心の奥の奥に巣食う魔物が離れてくれなくて、あたしは悔しさと罪悪感から、下唇を強く噛んだ。

20180709
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