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見えなくなってわかるもの

 歩幅が合わない。
 当たり前といえば当たり前だ。男女という性差、30cm余の身長差に加え、あたしたちは生い立ちや境遇までもが違いすぎる。家族のため、弟のために稼いで、世話を焼いて、身と心をすり減らすように働いてきた綴くんと、恵まれた家に生まれてのうのうと暮らしてきた世間知らずのあたしとでは、きっと生きてきたスピードまでもが違うのだと思う。年の差は2歳。けれど、その2歳差以上の高くて分厚い壁のようなものが、あたしたちの間には立ちはだかっている。
 それに気がつけなかったのは何故か。あたしが愚かなだけじゃない。きっと、綴くんがずっとずっと気を遣ってくれていたからだ。あたしに合わせて歩いて、あたしと同じように生きて、あたしのテンポで呼吸をしてくれていた。誰にも何にも、そう、当の本人のあたしにすら悟らせないさり気なさで、綴くんはずっと、あたしと歩調を合わせて今まで触れあってくれていた。
 だからこうしてケンカをした今、あたしはずんずんと遠ざかる綴くんの背中に全く追いつけないのだと思う。少し早足のように思えたけれど、多分これが本来の綴くんの歩幅なのだ。歩く速さを目の当たりにした。生きてきた速度を突きつけられた。あたしとは全然違う。あたしなんかじゃ追いつけない。人混みの中、「もういい」という一言を最後にどんどん見えなくなっていく綴くんのひとつ抜けた後頭部を見ているだけで、どうにも視界が滲んでくる。
 本来なら交わるような関係じゃなかったんだ、あたしたちは。あたしなんかじゃ釣りあわない。あたしみたいな世間知らずのお嬢様なんて、色んなものを見て、知って、辛酸を嘗めてきた綴くんとは、一緒にいられないのかもしれない。綴くんはあたしにたくさんのものをくれるけれど、あたしがそばにいることで綴くんに与えられるものが、あたしには何ひとつ見つけられなかった。それでも一緒にいて幸せを感じられて、そしてそれを許されていたのは、綴くんが誰よりも何よりも、あたしに優しさを与えてくれていたから。
 あたしはずっと、意識的にも無意識的にも、綴くんに甘えっぱなしなのだ。
 もつれるように足が止まる。うつむいたつま先に落ちる水は、もしかすると雨かもしれない。雨だと信じていたかった。少し前に明けた梅雨が気まぐれに帰ってきて、それで、空気を読むようにぱらぱらと雨粒を落としてくれていたならよかったのに。
「置いてかないで」と言えなかった。広くて大きな背中に向けて、そう叫ぶことが出来なかった。怖かったんだ。あたしのもとから去る直前に、ひどく冷たくて凍るような色をした目が、強く焼きついて離れない。
 情けない。情けないなあ。気づくのが遅くてみっともない。あたし、こんなに馬鹿だったんだ。自分のことしか考えてない。こんなんじゃ、こんなんじゃ綴くんに置いて行かれたって仕方ないじゃん――
「なまえ」
 ぽつり。
 雨になれない雫を追って、今度は言葉が落ちてくる。呆れたような、悔やんだような、ひどく曖昧で複雑な声色は、ついさっきあたしを撥ねつけたそれとは打って変わって頼りなかった。
「ごめん。言いすぎた」
 うつむいたまま上げられない頭のうえに、大きな手のひらが優しく置かれる。ゆっくりと、ためらうように頭を撫でられて、堰を切ったように涙があふれ出した。
 ぽろぽろと涙を流すあたしに、綴くんが動じる気配はない。あたしが泣くのに慣れっこなのだ。嬉しくても喜んでも感動してもすぐに泣くあたしを、綴くんはずっと、ずうっと見守ってきてくれたから。
「あ、たし。……あたしも、ごめ、ッごめんなさい。わがまま、ばっか、言って、めぇわくしか、かけないで、っ」
「迷惑しか、ってわけじゃねえけど……」
「だって! だってあたし、何にも、なんにも、ぐす、綴くんのためにって、出来ないし」
「……うん?」
「今回だって、あた、あたしが全部わる――」
「ストップ!」
 ぺち、と頬を両手で包み込まれる。くいと顔を上げさせられて、涙でべちゃべちゃの顔を無様にも大好きな人にさらす羽目となった。綴くんはやわっこいタレ目をさらにうんと垂れ下がらせて、情けない顔をして笑っている。さっきみたいに怒った気配はまったくない。ただ、ピーコックグリーンの奥の奥に、愛おしさだけを滲ませている。
「話を飛躍させすぎ。さっきのなんか、マヨネーズを何にどうかけるかってくだらねえ話だったろ。そうやって、すーぐ悪いほうに考えるのはお前のすっげー悪い癖」
「で、でも――」
「こういうときは、『ごめんなさい』したらもういいんだよ。それでさっくり終わらせて、また仲良しに戻ったらいいんだ」
「……怒ってない?」
「怒ってない。むしろ、あんなに怒ったことを後悔してる」
 ごめんな、ともう一度だけ謝って、綴くんはあたしを抱きしめてくれる。往来ゆえに周りの視線は気になったけれど、今こうして抱かれている体温と匂いが頭の中を占めてしまって、すぐにどうでもよくなった。
 綴くん、と名前を呼ぶ。控えめに、ん、とだけ返事をされる、その事実で胸がぎゅう、と苦しくなる。
「だいすき」
 その日の帰り道、もう歩幅が乱れることはなかった。

20180704
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