LOG

夢と、希望と、それから

 あたしにとって、家というものはひたすらに苦痛でしかなかった。
 理想を押しつけてくる父親と、半ば育児放棄状態の母親と、あたしを痛めつけては嗤う姉。使用人は何人かいたけれど、さすがに主人の愚痴なんて彼らに言えるわけもない。心安らぐ場所であるはずの家庭は、あたしにとってはただの地獄だった。
 そんなあたしがゲームに逃避を求めるのは至極当然のことだろう。父がゲーム会社の社長であり、触れる機会はたくさんあった。姉が邪魔してこないほぼ唯一のゲームというツールにあたしはのめり込んでゆく。このゴミのような現実から逃れたかったあたしは没入感のあるRPGを好むようになって、特に好きだったのがKnights of RoundというファンタジーRPGだった。
 アーサー王と円卓の騎士をモチーフにしたキャラクターが、広い世界を進んでいく。ランスロットという主人公の騎士が、旅の中でかけがえのない仲間と出会い、時には別れ、数々の冒険を経て成長する物語。今となっては王道と呼ばれ、むしろ使い古されたモチーフと言われてしまうのかもしれないけれど、それでもあたしはすぐにこのゲームの――ナイランの虜になった。
 いつかこのランスロットみたいな人が迎えに来てくれたら。この鬱屈した毎日から救い出してくれたら。あたしを、もっともっと明るくて、楽しくて、希望に溢れた世界へと連れ出してくれたら――窮屈な日々に苦痛ばかりを覚えていたあたしは、そうやって妄想を組み立てることでなんとか生きていけていたのだ。
 どんなに辛いことがあっても、きっとランスロットが助けに来てくれる。耐え抜いたときは褒めてくれる。あたしのことを見守っていてくれる。いつか会いに来てくれて、そして、あたしの手を取って冒険の旅に連れて行ってくれる。そう思うことで心を保った。それが、おそらくあたしの唯一の生き甲斐だった。
「なまえ、あなた最近このゲームに夢中みたいね?」
 けれどもあたしの逃避なんて、お姉ちゃんにしたらちゃんちゃらおかしいことだったのだろう。嘲笑まじりにあたしを見ながら、お姉ちゃんがナイランWのパッケージを片手に問うてくる。
 あたしが頷くと、お姉ちゃんは続けざまにいくつか質問を重ねてきた。
「そうねえ、あなたのことだから多分、このランスロットとかいうキャラが好きなんでしょう?」
「……どうして」
「見ればわかるわ。あなたの好みなんて笑えるくらいわかりやすいもの」
「…………」
「ふふっ、そう。ランスロットか……。いやね、本当にくだらないわ」
 顔の造りは女神のそれ。けれどもその笑みは悪魔に他ならなかった。
 お姉ちゃんは笑いながらナイランWのパッケージを放り投げる。一応ゲーム会社の社長令嬢という手前、踏みにじることは躊躇われたのだろう。それでも言葉の刃は少しずつあたしに食い込んできて、やがてこの身を貫くはずだ。
「こんな実在しない作り物なんかに熱を上げてどうするの? おっかしいわあ、あなたみたいに根暗でダメな子は意志のないオモチャにしか仲良くしてもらえないのね」
「ち、ちが――」
「何が違うの? あらやだ、あなたったらまさかこんなハリボテが実在するとか、いつか会えるとか考えちゃってるわけ? 我が妹ながら呆れるわ、ゲームなんてやってるとこんなに頭が悪くなるのね。それともこのランスロットさんに影響されちゃったのかしら」
「! ら、ランスロットのこと、そんなに悪く言わないで……っ」
「悪くなんて言ってない。事実でしょうに」
 これみよがしにため息を落とし、お姉ちゃんはあたしの部屋を去っていく。ばたん、と扉の閉まる音がなぜだかひどく大きく聞こえた。
「ッ……ごめん、ごめんね、ランスロット。あたし、何にも言えなかった、」
 何にも言い返せなかった。お姉ちゃんのことを、黙らせることが出来なかった。大好きな人があることないこと言われているのに、それを撤回させるだけの強さが、今のあたしにはなかった。あたしは弱いから。
「こんなんじゃ、迎えになんか来てもらえないよね……」
 ほろり、悔しくて悲しくて淋しくて、どんどん涙が溢れてくる。とめどなく溢れるそれは、すぐにあたしの頬をびしょびしょにした。
 あたしなんかじゃダメなんだ。あたしみたいな弱虫は、ランスロットの仲間になんかしてもらえない。たとえ気弱な性格であったとしても、ガレスのように騎士道を貫いてみせる最期を、あたしが遂げられるとは思えない。あたしが弱くてダメな子だから。あたしが、悪い子だから。
「ごめん、ごめんね……っ、ごめんなさい……!」
 お姉ちゃんに放り投げられたナイランWのパッケージを抱きながら、声を殺して泣きじゃくる夜。嗚咽と、鼻水をすする音と、涙の落ちる音だけが聞こえてくる。
 夢とか希望とか、そんなものは持つべき人にしか持っちゃいけないものなのかもしれない。そう悟った小学6年生の秋だった。



「……やなこと思い出しちゃったなあ」
 もう何年も昔の話なのに。フラッシュバックさながらに蘇った記憶を思いながら、あたしは頭痛のする頭を軽く振った。好きなゲームの話でこんな悪夢を思い出すだなんて、まったくファンの風上にも置けないようなことをするものだ。こんなことではいけない。ぺちぺちと頬を叩いて気合を入れ直す。
 電車を降りて数分。ひどくなった頭痛に呻きながら、あたしはため息まじりにスマートフォンの画面に指を滑らせる。アプリの通知を消しつつ、LIMEを開いて先ほど送られてきたメッセージを確認した。差出人は至くんだ。
『これから衣装合わせするんだ。時間あったら見においで』
 ――そんなの無理やりでも行くに決まってんじゃん。
 あまりの衝撃にわざわざ電話をかけて口頭でそう伝えると、至くんはゲラゲラ笑いながらわかったと連呼していた。お前もチェックに協力してなと、そう付け加えながら。
 そしてあたしは今まさに録画を始めようとしていたゲームを放り投げ、こうして光の速さでMANKAI寮までやってきた、というわけだ。ドMプレイが過ぎて行き詰まっていたのでちょうどいい。みんなのナイラン衣装を見たら何かしらの特殊スキルに目覚めちゃうかもしれないし。
 そうこうしているうちにMANKAI寮へ辿り着いたあたしは、ドヤ顔の瑠璃川くんに迎えられて稽古場まで駆けていく。廊下を走るな、という古市さんの声は無視した。防音設備がしっかりしていることもあって稽古の声や談笑は聞こえない。扉の前で数度深呼吸をして、あたしは控えめなノックをする。返事を確認してからドアを開けると、そこには――
「お、きたきた。いらっしゃい」
 まさに、理想そのままといった立ち姿のランスロットがそこにいた。
 ウィッグやカラコンの類は使ってないみたいだけれど、分け目を変えてかき上げている髪型にランスロットの清廉な空気を感じられる。さすがナイランオタクといった具合で、立ち方や指先ひとつの立ち居振る舞いにもこだわり尽くしているのだろう、所作も完全にランスロットのそれだ。
 白を基調にして青いマントや装飾を施した衣装は、まさに“三次元のランスロット”だった。程よいアレンジは加えられつつも、決して原作の世界観を逸脱することはない。むしろこの上なく三次元に馴染んでいる。あの日あたしが思い描いたランスロット以上に、三次元の住人として、同じ肉体を持つ人間としてランスロットがいるかのように思える。
 綴くんのマーリン、咲也くんのモードレッド、碓氷くんのガレス、シトロンさんのアーサー王、卯木さんのガウェイン。そのどれもが実在していた。そう、円卓の騎士たちが実在しているのだ。
 まるで今あたしの立つこの世界こそが、Knights of Roundの舞台だと思わせるような――
「やば、なまえ、ちょっと……」
 ランスロットが――至くんがあたしの頬に触れる。衣装に気を遣う指先に目を向けると、少しばかり濡れているように見えた。――あたし、今、泣いてるんだ。
 ごめん、と謝る声は声にならなかった。胸の奥が震えている。あのとき、あの日に諦めた夢が叶ったのだ。あたしの抱いた希望の火は消えないまま、こうして再び燃え盛る。
「……の、――」
「ん、なに? どうしたの」
「――本物の、ランスロットだぁ……っ」
 会いたかった。あたしがそう言うと、至くんはふにゃりと顔を緩ませて笑う。うん、うんと頷きながら、ゆっくりとあたしのことを抱きしめてくれた。汚しちゃ悪いからと離れようとしたものの、このところの特訓のせいかいつもより力強く抱かれていて、いうほど身動きは取れなかった。
 助けてくれる人はいる。救い出してもくれるんだ。やっぱり、ランスロットはいるんだよ。
 至くんこそが、あたしのずっと会いたかった、ずっと待ってたランスロットだったんだ。
「あの……なまえちゃん、大丈夫ですか?」
「うん? ……ああ、大丈夫大丈夫。なまえもナイランに結構思い入れあるからね、感極まっちゃったみたい」
「いきなり泣き出すって相当っすよね……」
「はは、確かに。まあでもそうだな、俺たちの円卓の騎士、なまえ的には合格みたいだよ」
 ――ね、なまえ。
 あたしの後頭部を撫でながら言う至くんの声が、ひどく穏やかに響いていた。

20180621
- ナノ -