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なまりの気持ち

 どこかへ連れ去ってしまいたい。
 誰にも見つからないところへ。
 誰にも触れられないところへ。
 誰にも、傷つけられないところへ。
 たとえば今この瞬間右腕が斬り落とされたとして、優しく治療して丁寧に扱っていればまた新しい腕が生えてくるか? 答えはノーだ。
 たとえば背中に爆風を受けたとして、火傷の痕は跡形もなく消えるか? これもノーだ。
 目に見える傷だって完全には治らない。視覚的に痛みと記憶を蝕んできて、永遠にも等しい苦しみをもたらしてくる。
 ならば目に見えない傷なら忘れられるのかといえば、やはりこれもノーである。むしろ、見えないからこそ治ることがないのだと思う。治ったこと、乗り越えたこと、打ち勝ったこと、心を強くしたこと、それらを五感的に感じ取ることが出来ないからこそ、治癒というボーダーラインがひどく不安定なのだ。それはおのれのものであったり、他人のものであったりもして。
 独り、膝を抱えて耐え忍んできた女の子を知っている。細い肩を震わせながら、どこにもない安息を諦めて救われることを望まなくなった子。苦しむことを受け入れてしまった子。深い眠りを忘れてしまった子。吐き出すことが発散にならない、愚痴を吐くことも自己嫌悪につながる、ひどく追い詰められてしまった、こんな小さな女の子。
 薄緑の和毛をひと房手に取ってみる。穏やかな寝息が乱れていないのを確認して、細い毛先の感触を楽しんだ。ふわふわで、ツヤがあって、触れていると気持ちがいい。抱きしめたときにふわりと香る甘い匂いを胸いっぱいに吸い込むたびに、至福感が心を占める。俺はこの髪が好きだった。
 ほんの数ヶ月前なら少し触れただけでも目を覚ましていたのに、今はおそらく何をしてもぴくりともしないほど寝入っているだろうと思う。名前を呼んでも起きやしない。起きないことが、嬉しかった。
 叶うなら今すぐにでもどこかへ連れ去ってしまいたい。誰にも脅かされないところへ、誰にも虐げられないところへ、誰にも弄ばれないところへ。姉との仲は回復した。回復したから何だという。関係が快復したからといって、なまえの受けた傷が綺麗さっぱりなくなるわけじゃない。今まで受けた痛みを忘れることなんか出来るわけがない。苦しむ様をこの目で見た。ずっとずっと見続けてきた。あの光景が、記憶が、はいそうですかよかったね、でなかったことにされるわけなんか。
 ねいむさんのことが嫌いなのではない。人としてどうしようもない部分も確かにあるが、それは誰しもが持っているものだと思うし、先輩として慕っているのは本当だ。ただどうしても許すことが出来ない。あの人が懸命に贖罪をはかっていることも、妹のために家庭内で尽力していることも、姉妹間の溝を埋めようと試行錯誤を続けていることも知っている。限りなく近い場所にいる第三者として、2人を見守ってきたのだから。それでも俺は許せない。今の今まで気づけなかったその愚かさを、きっと一生許すことはないのだろう。
「なんつって……愚か者はどっちだよ、って話なんだけどな」
 結局は同族嫌悪というやつなのだと思う。なまえが傷ついているのを知っていたくせに保身に走って見ないふりをした俺は、もはやねいむさんと共犯者にも等しいのだ。
 そしてまだ見ないふりをする。なまえを守ろうとすることで、過剰に構うことで過去から逃れようとしている。なまえのためなんかじゃない。きっと全部自分のためだ。どうしようもない後悔に喘いで、逃避のためになまえを使おうとしている。それをなまえが望んでいるかなんて考えないで。その根底にはもしかすると、守られたいから守っている、なんて情けない願望まで潜んでいるかもしれない。
 ――愚か者にも程がある。自嘲するように笑みをこぼすと、腕のなかのなまえが小さく身動ぎした。まさか起こしてしまったのだろうか、しばし動向を観察していると、程なくして再び規則的な寝息が聞こえてくる。眠りに落ちる直前にすり寄せられてきた頬は、あたたかくて優しかった。
「ごめんな。……ありがとう」
 柔らかい体を抱きしめる。愛おしいと強く思った。だからこそ助けてやりたいし、支えてやりたい、今まで与えられなかったぶんの優しさを受ける権利があるのだと、彼女を想うたびに考える。そこには何の下心もなかった、これだけは真実だ。
 その気持ちがあれば充分なのかもしれない――なんてことを思いながら、朝焼けが射し込むカーテンを背に、二度寝へと耽ることにした。

20180606
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