LOG

えにしを結ぶ

『――なまえはそういうんじゃない、かな。ごめんね』
 何度も何度も夢に見る。困ったように笑いながら、優しく突き放してくる至くんの夢を。


 授業の終わりを迎え、下校時間にようやっとスマートフォンを手に取る。外出用の手帳型カバーは桜色の革製で、いくつかたんぽぽを模した意匠が施されているあたしのお気に入りだ。長時間プレイのおかげで発熱は避けられないので自室ではカバーを着けずにいることが多く、外に出るときだけオシャレをしているだなんてまるであたしとおんなじだ。自分のスマートフォンに対して親近感を抱きつつ、あたしは開くのをためらうように手触りの良い革の質感を指の腹で味わっている。
 すう、と深く息を吸い、決意を固めて手帳を開く。画面をダブルタップして暗い板を点灯させると、そこにあったのはいくつかのLIME通知と不在着信だ。
 ――至くん。呟くように不在着信の通知を滑らせ、通知バーから消していく。彼からの着信にいったい何の意図があるのか、あたしには全くわからない。怒ってるのかな、と思いはすれど、あれからもう何ヶ月も経っているのだから、きっとゲームのお誘いか何かかもしれない。いつもは電話なんてしないくせに――なんて、期待しそうになる自分を何度も何度も押し殺した。
 LIMEのほうは公式アカウントのお知らせが数件と、今夜時限クエに付き合ってくれないかというお誘いだった。今日はなんとなく気分が乗らなかったので、至極丁寧にお断りのメッセージを送る。今度必ず埋め合わせはします、と続けて送ると、可愛らしいスタンプと共に『倍時間付き合わせてやるからな!』という恐ろしい返事が来た。了解のスタンプを送信し、既読がついたのを確認してLIMEのアプリを終了させた。
 本当は暇なくせに。嘘つきな自分に吐き捨てるような文句を浮かべ、足早に教室を出る。出入り口や廊下の道中で何度も先輩に挨拶という名の足止めを食らうのは日常茶飯事となっていた。鼻の下を伸ばしながら視線を下げてくる下衆な先輩は、きっとあたしの胸に興味津々なのだと思う。顔と胸を交互に見ながら上擦った声で話しかけてくる、その一挙一動がいつも不快で仕方なかった。なんとか撒いた頃には校門まで随分遠回りとなっていた。
 苛立ち混じりにスマートフォンを取り出し、再び着信履歴を開いて至くんの名を確認する。電話があったのは実のところ今日だけじゃなくて、何日か空けて複数回かかってきているのが現状だ。勇気がなくて出れないだけ。訊ねる決意が定まらないだけ。彼の声を聞いたそのとき、泣かない自信がないだけだ。
 そうやって弱虫のままズルズルと時間は過ぎていって、きっとそれこそ至くんを怒らせているに違いない。疑惑は不安を生む。積み重なって動けなくなる。ほんの少し踏み出せば案外呆気ないものであったりすることもあたしは知ってるはずなのに、やはり立ち止まったままダメなあたしに逆戻りだ。
 わかっているはずなんだ。至くんがそんな人じゃないということ。みだりに怒ったり傷つけたりする人じゃないこと、本当はとても優しい人だということ、優しくて繊細だからこそ距離を取ってしまうこと。あたしはわかっているはずだ。だからあの人を好きになったの。だからこそ、振られていくつも経つくせに、こんなに焦がれて仕方ないの。
 どうにも鬱屈した気持ちを拭えないまま、あたしは校舎を出て校門へ向かう。すっかり丸裸になった木々を横目に進んでいると門の向こうから黄色い声が聞こえてきて、ああまた碓氷くんのファンクラブが集っているのだろうかと目線を下げた。近ごろ話す機会が増えたおかげでファンクラブの女の子からやっかみを受けることが多くて、触らぬ神に祟りなしという言葉の通りあたしは人目のあるところで碓氷くんと2人になるのを避けるようになった。咲也くんや摂津先輩が居るときならまだしも――否、みんなと居るときも問題だ。むしろ何人も男を侍らせて云々って、結局あたしは何をしていてもあることないことそしられる運命なのだろう。
 はあ、と重たいため息を吐き出す。こうして前の生活に戻ってみるとわかるのは、あたしが思ったよりもMANKAI寮でのひと時を拠り所にしていたのだということ。あそこで温かい人々と触れあうことが癒やしになっていたのだろう。咲也くん、綴くん、碓氷くん、シトロンさん、そして他でもない至くん。みんなに仲良くしてもらうことで、あたしはどんよりと重苦しい日々のなか、顔を上げて生きる力を得ていたのだ。
 ――バカみたい。独りごちながら校門をくぐると、人だかりの顔ぶれがいつもと違うことに気づく。よく見ると教師も何人か熱を上げているふうで、あれ、と落とすように言葉をもらしたときだ。
「よかった、間に合ったみたいだな」
 聞き覚えのありすぎる声。顔なんて見なくてもわかるのだ、それが誰なのかということくらい。
 なまえ、と優しく名前を呼ばれて、あたしはやはりというべきか今にも視界が歪みそうになった。周囲の視線なんか今は全然気にならなくて、ただ目の前に大好きな人がいる事実に胸がいっぱいとなってしまう。
「先輩に頼まれて迎えに来たんだ。行こっか」
 ギャラリーの隙間をするりとくぐった至くんは、誰もが見惚れる流麗な動作であたしの手を引いて歩き出す。誰の追求も許さないようなある種のオーラを漂わせる久しい温度とその背中に、あたしの意識は釘づけだ。少しでも気を抜いたら泣いてしまう気がして、あたしは至くんの車に乗るまで、結局ひと言も喋れないままだった。ドアを開けて助手席へ誘ってくれる至くんのエスコートは、きっと色んな女の人が羨んで仕方ないものなのだろうな。
 ――ごめん。運転席に乗り、エンジンをかける間際に至くんが呟く。弾かれたように視線を投げかけると、至くんは眉を下げて笑いながら、頼まれて迎えに来たのは嘘なんだと言った。こうでもしないとあたしがついてこないと思ったから。「ごめん」の意味を期待した自分がひどく浅ましく思えて、あたしはそっけない返事しか出来なかった。これじゃあ悪化するだけじゃないか。
「でも、謝りたかったのは本当だから。もちろんねいむさんのこと意外で、ね」
 遠回りの旨を伝えながら、至くんはゆっくりと車を走らせ始める。相変わらず運転の上手い至くんは、何の危なげもなくするすると道路を走る様も、手慣れた様子でハンドルを切る横顔も、まるでフィクションの世界を切り取ったかのようなある種の美しさを湛えていた。
 大好きなのだ、こんなにも。胸が焼けつくように痛くて、あたしはグレーのシートベルトをキツく握りしめる。気分悪い? と訊ねてくる至くんには、首を振って答えた。
 そう、と短い返事を最後に会話が途切れる。暖房のおかげで車内はやっと暖まり始めたところなのに、なんだかあたしたちの心がどんどん冷めきっていくような感覚が怖くて、あたしは今にも車を飛び出しそうになる。逃げたかった。無様になりたくなかった。距離が離れたことを、もう前みたいには戻れないことを確信にしたくなくて、何からも遠ざかってしまいたくなる。
「――好きなんだ」
 軽いブレーキ音のあと。路肩に車を停めた至くんがつぶやいたそれは、脈絡なんて全くない出し抜け極まりないものだった。
 期待してしまいそうになる。何が、と返すのが精いっぱいで、あたしは至くんの顔が見れない。
「お前のこと。気がつかなかっただけで、自分で思ってたより何倍もお前のことが好きだったみたい」
 至くんはこちらを見ない。ローズピンクの瞳は行き交う車の群れを遠く見つめていて、あたしのことなんか全然見てない。
 見ていないんだ、あたしのことを。至くんの目に、あたしみたいな子供は、出来損ないは映ってなんかいない。
 ――ダメだった。ガラガラと崩れ落ちてゆくものを感じる。胸の奥が、足元が音を立てて壊れるような、そんな感覚を覚えた。自然と口が開いて、あたしの思いとは裏腹な言葉が堰を切ったようにどんどん飛び出てゆく。
「じゃあ、なんであんなこと言ったの……? 『そんなんじゃない』って何だったの!」
 大粒の涙がはたはたと落ちる。スカートに広がるシミはみるみるうちに増えていって、まるで心から漏れ出た血のようにも見えた。あたしのことをどす黒く染めてゆくのだ。
「いきなり言ったあたしもいけなかった、けどさ……! 今更そんなこと言われたって、あたし、どうしていいかわかんないよ!」
「……ごめん」
「至くんからLIMEが来るたびっ、着信が来てるのを見るたびに! あたしがどんな気持ちでいたか考えたことあるわけ!? 気づけなかったってなに、そう言えばあたしが全部許すって思ったの!? あたし、あたしがどんくらい至くんのこと、どれだけ好きだったとか知らないくせに!」
 ――酷い言葉を吐く。知らないのなんて当たり前だ。わからなくて当然なのだ、だってあたしたちは悲しいくらいに他人であって、口に出さなきゃ気持ちも何も伝わらない。伝わらないから気づかなかったんだ。
 みんなあたしたちのことを仲が良いって言ってくれた。お姉ちゃんもあたしのことを応援してくれてた。でもきっとそれは違うんだ、あたしたち、仲が良いと思われてることに甘えて何にもしてこなかったもの。ぶつかることも、向き合うこともしないまま、ただなんとなく隣に座ってただけだった。春組の千秋楽を終えて、仲直りしてから少し近づいたように思えた距離も結局は微々たるものでしかなかったのかもしれない。他人には鼻で笑われてしまうような、そんな些細な、おままごと。
 あたしのめちゃくちゃな言い分を、至くんはじっと黙って聞いている。やがてあたしの嗚咽しか響かなくなった頃、至くんは大きくため息を吐いて俯いた。
 追い出されちゃうかな。外に出ても変な目で見られないよう、早く泣きやまなくちゃ――
「色々覚悟はしてたつもりだけど、やっぱ、いざ言われるとすげーキツい。……そうだよな。そんくらいのこと、したんだな……」
 額をハンドルにつけて項垂れる至くん。緩く瞳を伏せて、もう一度震える息を吐く。ちらりとこちらを見たローズピンクはさっきよりも頼りなく揺れていて、短く述べられた謝罪も震えているように聞こえる。
「いい大人のくせにダメだ、俺のほうが逃げてる。いっかい自覚するともう、余裕もクソもなくなるっていうか――」
 至くんは困ったように笑う。あたしが夢で見たより何倍も人間味があって、何倍も苦しそうで、そして何倍も愛おしい笑い方だった。こんな顔は見たことがない。こんなふうに、たとえ困らせているのだとしても、あたしのために表情を変える至くんが、今の情けない至くんこそが強く胸を揺さぶってくる。こんなときじゃなければ今すぐ触れていただろう。
 肩を竦めながらシートベルトを外す至くんの手元はどこかもたついていて、ゆっくりと、向き合うように体をひねった。
「他にもある? 言いたいこと。何でも言って、全部聞くから」
「……なん、で」
「俺のことを好きになってもらうために」
 す、と伸びてきた手があたしの頬に触れようとするけれど、既のところで躊躇いを孕んで帰っていった。車という閉鎖空間のなかで、重たいような甘いような空気が漂う。
 ――好きになってもらうために。狡いことを言う人だと思った。どうやら至くんはあたしに嫌われたと思っているようで、確かに電話に出なかったりLIMEの返信が素っ気なかったりしたらそういう思考にも走るだろう。否、そう思わない人のほうが少ないはずだ。あたしは自分のことに精いっぱいなその裏側で、この優しい人をひどく傷つけていた。
 嫌われてると思っているくせに。それでもこうして、逃げ腰になりながらも真摯に謝ろうとしてくれたこと。怖いと思っているくせに、向き合おうとしてくれていること。好きになってもらおうって、それくらいの気持ちを、こちらに向けてくれていること。――それを信じないでどうするの。
 大好きな人にここまでやらせて、これほどのことをさせておいて。何も応えないなんて選択肢は、きっとどんなゲームにも存在しない。
「――じゃ、ないの」
「ん、なに?」
「ば……ッ、バカじゃないの」
 おかしな話だ。あんなにも遠くて、あんなにも大人に思えていた至くんが、今はこれほど近く感じられる。こんなにもお間抜けで、こんなにも可愛らしくて、こんなにも疎い人だなんて。人を好きになったときの疑心暗鬼というやつは、例外なく至くんにも取り憑いていたんだな。
 かち、と音を立ててシートベルトを外す。飛び出されると思ったのだろう、至くんは一瞬だけ傷ついたように瞳を揺らがせて、カーナビの下にあるドアロックの解除ボタンに手をかけた。――そういうところがバカな人だ。
 なんとなく気恥ずかしさが拭えなくて、あたしはぶつかるように至くんの肩口へ額を寄せる。ぅえ、と無様な声をあげる至くんの両腕が、彷徨うように動くのが目の端に映った。
「嫌いになんてなれるわけないのに」
 シートとの隙間を縫って背中に手をまわす。ぎゅう、とキツく抱きしめてみると、至くんが安堵したように小さく吐息を漏らすのが聞こえた。控えめに背中をなでてくる手のひらはやはり躊躇うようでいて、どこか慈愛に満ちたような温もりを持っている。
「ごめんなさい。あたしも……その、酷いことばっか言ったし、いっぱい至くんのこと傷つけてた、から」
「なまえ、」
「電話に出れなかったのね、あたし怖かったからなんだ。……至くんが怖いんじゃなくて、絶対泣いちゃうと思ったから。そういうの鬱陶しいし、嫌われちゃうのもいやだし」
「……嫌いになんかなるわけないだろ」
「うん。……ふふ、一緒だね」
 すっかり薄暗くなった道路を、いくつも車が行き交っている。対向車線からやってくる車のライトが窓ガラス越しに車内を照らして、赤くなった至くんの顔がはっきりと見えた。7つも年上のくせに告白ひとつでこんなになっちゃうのがなんだかすごく可愛くて、不覚にも笑ってしまったあたしを、至くんは少し拗ねたような目で見てくる。この野郎、と恨めしげに頬をつまんでくる指は、もう躊躇いも迷いもない。頬をびしょびしょにしたあたしの涙を拭う指にも、あたしを見つめて微笑む様にも。
「至くん。今日は来てくれてありがとう。……大好き」
 熱くなった至くんの頬を、ゆっくりと両手で挟む。ん、と両目をしばたたかせる間に吸うように唇に触れると、至くんもまた弾かれるように食らいついてきた。
 啄むようにしたかと思えば深く貪り舐めてもきて、緩急つけた舌の動きに頭がくらくらしてくる。辺りは既に真っ暗だ。冬場らしく日没はどんどん早まってきていて、薄目を開けても何も見えない車内を衣擦れと吐息と水音が支配していた。
「こんなん、帰したくなくなるに決まってる」
 名残惜しそうに離れた至くんが、あたしの首筋に頭をつけながら呟いた。ふわふわした髪がくすぐったい。
「週末だし、お持ち帰りコースでもあたしは全然構いませんけど」
「……俺の甲斐性に関わってくるのでやめておきます」

20180601
- ナノ -