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花開きて

『ッあ――ご、ごめんね、そうだよね。……うん、えへへ……ごめんなさい』
 抑えるような涙声が、今もなお耳にこびりついて離れない。


 残暑の厳しさ残る秋口のことだった。始まりが何の話だったのか、今となっては少しも思い出せないけれど、いつもの通り職場や学校の愚痴だとか不平不満だとか、次の公演に向けてのスケジュールとか稽古とか、近く発売する新作ゲームの期待値についてとか、そんな他愛ない話ばかりしていたと思う。深夜1時も半分を過ぎたような、静かな夜の通話だ。
 そんななかでふと、最近同じ部署のとある先輩に告白された話を振った。抜けがけみたいになって心苦しいのだけれど、来週転勤が決まったから今のうちに伝えておきたいのだと――俺は今さら恋人だなんて作る気はなかったし、作ったとしてゲームに割ける時間が減るのはご遠慮願いたいし、そもそも相手のプライベートなんて露ほども知らなかった。顔の造りは悪くないとはいえ、好きでもない限りなく他人な誰かと深く付き合いたいと思うか? 近場ならまだしも転勤の決まった相手なのだから、もちろん答えはノーである。
 出来るだけ角が立たないよう、俺自身のメンツも潰れないように殊更優しくお断り申し上げると、彼女はただ聞いてほしかっただけだからと言ってその場を去った。今にも泣きそうなくらい目を真っ赤にして、ぐずついた声を堪えた背中を見ながら、今日は5時から新イベだな、なんてことを考えていたのがつい3日前の話だ。
 聞く人が聞けば自慢とすら取られそうな俺の世間話に耳を傾けるなまえは、うん、うんと重めの相槌を打ちながら、俺の話が終わると大きくため息を吐いて笑った。どうしたの、妬けるわけ、そんな軽口を吐き出すと、予想外になまえはそれに頷いて応えた。
 ――そりゃあそうだよ、だってあたしも――
 言いかけて、それを遮るように息を呑むような声が続いた。居心地の悪い空気に影響されたのか、はたまたひどく取り乱しているのか、画面の向こうにいるなまえのアバターがボスモンスターから致命傷を食らう。慌てたような声とコントローラーを落とす音がヘッドホン越しに聞こえて、俺は笑うことも揶揄することも出来ないまま、なまえのアバターに回復魔法をかけた――つもりで、攻撃魔法を唱えていた。追い打ちでしかないフレンドリーファイアだ。すまん、と言うと、大丈夫! と空元気丸出しの返答が聞こえた。
 無関心ではいられない。先日のあの先輩のように、日常のひとつとして流せるほど小さな相手ではなかったようだ。それでもなまえを好きなのかと言われたらそれはおそらくノーに近くて、そもそも高校生を恋愛対象にする社会人というのも二次元だけにしてもらいたい。犯罪者になるのはごめんである。
 ボロボロになりながらボスモンスターを倒したあと、意を決して口を開く。なぜだかひどくのどが渇いていた。
 ――なまえはそういうんじゃない、かな。ごめんね。
 そう伝えて返ってきたのが、冒頭の涙声だった。その日はあと2、3プレイして、元々なまえが病み上がりということもあって少し早めに切り上げることになった。「また明日」と言った返しが震えた「じゃあね」だったことに覚えた違和感は、それからほとんど連絡がつかなくなっていよいよ現実味を帯びる。
 通信や通話に誘っても、乗ってくることはなくなった。LIMEの返事は数時間後で、ひと言ふた言やり取りしたら既読がついて終わらせられる。電話はお互い得意ではないし、ゲーム中や急ぎならまだしも普段から電話を介して話すことなどなかったので、とうとう連絡を取らなくなって早2ヶ月が経とうとしていた。
 なんとなく、心の隅にぽっかりと空いた穴の存在を感じながらも、俺は変わらない日常を送っている。MANKAIカンパニーも秋組の千秋楽を終えて、次は冬組のメンバーを集めなければ、という話がちらほら出始めているところだ。
 何も変わらない。なまえと話せないくらいで、なまえとゲームが出来ないくらいで何かが劇的に変わるほど、俺は他人依存の不安定な生活を送るつもりはなかった。
「そういやあ、最近みょうじ来てませんね」
 自室に運び込んだ決して小さくないソファの上、右隣に陣取った万里が出し抜けに言った。唐突な発言に俺は思わずコントローラーを取り落とし、あと少しで倒せるはずだった敵にまんまとやられてしまう。万里からもささやかな舌打ちが聞こえた。
「なに? なんか気になるわけ」
「べっつにー。ただ、みょうじと居るときのほうが至さんのスコア良かったなって」
「は、お前そんなんまで見てんの? キモ……」
「ひと言多いっす!」
 ほら、と苛立ったような万里にコントローラーを渡される。派手な音を立てて落としたわりにはどこにも傷は入っておらず、柄にもなくホッとした。俺がしっかりコントローラーを握ったことを確認したらしい万里から今度はこっちのステージ行きましょ、と言われ、されるがままに従う。さっきは暗闇の洞窟ステージ、今度は水中のステージだ。
「つーか、ケンカでもしたんならさっさと仲直りしてくださいよ。こっちも困るんで」
「別に迷惑なんかかけてないだろ」
「ピリピリしてんすよ! 至さん!」
 自覚ねーのかよありえねー――そう続けながら万里がステージを探索する。様々なギミックを難なくこなし、奥の奥にようやっと敵を見つけた万里は手慣れた様子で雑魚を一掃していった。昨日やり始めたばっかのくせに、と悪態ついでに背中から撃ち抜いてやると、そういうことすっから怒られんだろ! とごもっともなお叱りを食らった。
「怒らせたんじゃねーっつの。ケンカでもないし」
「じゃあなんで――」
「振ったの」
 ファンが見たら泣き出しそうな間抜け面を晒す万里に、そういう目で見ないであげてねと注意を促して、事のあらましを説明した。
「ちょっとした弾みで告白されて、でも別に恋愛対象として見てるわけじゃないからってお断りした。……泣かせちゃったけどね」
 そのせいだよ、と続けておく。想像よりかは平静を保ったまま言葉を返せた自分を心の隅で褒めながら万里の顔を窺うと、文字通り信じられないとばかりに眉間にシワを寄せていた。アンタ、思ったよりもバカなんだなと添えられて。
「年上を馬鹿呼ばわりするもんじゃないよ」
「いやだって……はー、そのへん全部無自覚っつーわけかよ……」
 大きく肩を竦めた万里は、ちょうど中ボスと思しき部屋へたどり着いたところだった。正方形の部屋の中央部に出てきた少々コミカルなモンスターを協力プレイで翻弄しながら倒していく。あっという間に中ボスは倒れ、軽快なメロディと共に奥へ続く扉が開いた。こんなふうに、至極機械的に物事をこなしていけたら楽だろうにな――なんて考えが浮かんだ辺り、もしかすると俺は結構参っているのかもしれない。
「……至さん、みょうじが3年に結構人気っつー話って知ってます」
「咲也から聞いた。あとなんか、親衛隊とかいるんだって?」
「そっす。つってもまあ、その親衛隊は抜けがけ禁止っつーことなんであんまり害はないんすけどね。大変なのは親衛隊外の……こう、ちょっとガラの悪いやつらか、こじらせたヤベー集団っつーか」
 珍しく言い淀む万里。探索の合間に話を促せば、小さなため息とともに言葉を次いだ。
「元々俺はつるんでた奴らがアレなんで。ゲスい話も日常茶飯事だったから、まあ、みょうじみたいな如何にもお嬢様ってやつは好き勝手言われるんすよね。胸もでけーし」
「…………」
「今すぐにでもブチ犯してやりてーとか、土下座したらヤらしてくれそうとか、むしろ騙して金でも何でもむしり取ってやろうとか、実際手を出そうとしたやつも――」
 途中、ちらりとこちらを窺った万里がたじろぎながら言葉を切った。なんだよ、と返したおのれの声が想像よりも怒気を孕んでいることに気がついて、謝罪とともに咳払いをした。腹の底がうねるような心地がする。
「……そんな顔すんなら、何で振ったりしたんだよ」
 ――興醒めした。そう言ったのは万里だ。
 結局ステージの探索もしきらないまま、今日はお開きということで終わった。部屋を出るまで万里は一度もこちらを見ようとしなかったけれど、それが当たり前だと思う。言いたくないことを言わされたうえ、言わせた本人が勝手に不機嫌になったのだ。後日きちんと詫びるべきかと頭を悩ませつつ、俺はいやに広くなったソファに体を沈める。
 実際のところ、確かになまえのような人間はあれやこれやと羨望や嫉妬や好奇の目で見られやすいものだと思う。花学には少なくないとはいえ、ゲーム会社社長の娘で混血児、他にも凡人が欲しがるような「ステータス」が盛りだくさんだ。中学のとき大変な目に遭ったとも言っていたし、絶えず色んなところで様々な被害にあっているのだろう。本人が認知しているかは別として、だ。
 だからといって俺にあいつを守ってやる義務なんて少しもない。ねいむさんと険悪だった頃ならまだしも、今はあの姉妹の仲も快復している。仕事の合間にねいむさんからなまえの話を語られるし、なまえからも度々「お姉ちゃん」との出来事を聞かされた。やっとあの姉妹は普通の関係に戻れた。だから、俺がなまえの保護者代わりになる必要はもうなくなった。俺たちも普通の関係に変わるときだと思うのだ。
 俺となまえは少し年の離れたゲーム仲間、そういった関係が一番心地良いはずなのに。
「――至さん、ちょっといいですか?」
 こん、と控えめなノックが滑り込む。誰なのかは声でわかった。ふらつきながら扉へ近づき、声の主――咲也を部屋へ招き入れる。咲也は、少し困ったように笑っていた。
「えっと、いま大丈夫ですか? あんまり人に会いたくなかったら――」
「平気。どした?」
「あ……っと、その、なまえちゃんのことなんですけど」
 追い打ちとはこのことか。今だけは聞きたくないその名前が出てきたことに神という神を恨みながら、しかし平気と言った手前いまさら話をやめさせることは出来ない。咲也をさっきまで沈んでいたソファへ案内しつつ、努めて平静を装いながら続きを促すと、やはり言い淀みながら言葉を紡がれる。
「この間、学校でなまえちゃんと話す機会があって、色々聞いてみたんです。最近遊びに来ないけど何かあったの、とか、至さんもなんとなく元気がないよ、とか……」
「……そう」
「ただ――その、至さんの話を振ったとき、なまえちゃん、泣いてしまって」
 ぎり、と胃が静かに軋んだ。胃酸がのぼってくる気配がして、そういえばなまえもねいむさんの話を振られるたびに胃を痛めていた気がするな、とどちらにしろなまえに話を結びつける自分がひどく憐れに見える。
「ケンカしたの? って訊いても何にも答えてくれなかったから……あ、別に野次馬したいとかではないんですけど」
「わかってる。心配してくれてるんでしょ」
「……はい。なまえちゃんといるときの至さん、本当に幸せそうだったし、仲の良さそうな2人を見てるの、オレもすっごく好きだったから。また、元通り仲の良い姿が見れたら嬉しいなって」
 尻すぼみになる咲也の声を、ゆっくりと頭のなかへ染み渡らせてゆく。
 幸せそうな顔をしていたそうだ、俺は。なまえの隣にいるとき、なまえのそばにいるとき、なまえとゲームをしているとき、確かに言い様のない安心感を覚えていたと思う。夜ごと話した事実だってきっとそれを裏づけていて、人と距離を取って、信用しないように生きていたつもりのくせに、俺は自覚のないところでなまえのことを必要としていたらしい。
 明確なきっかけがあるわけじゃない。断定的な理由があるわけでもない。ゆっくりと、知らないうちに蕾をつけていたのだろう。そして今まさにその蕾が大輪の花を開こうとしている。
 黙りこくった俺の様子を窺っていた咲也に目を向ける。俺の顔を見た咲也は、どこか安堵したように微笑んだ。
「……咲也」
 はい、と咲也が静かに答える。こういうときに咲也のことを――咲也が春組のリーダーであってくれてよかったと、心の底から思うのだ。
「泣かせたくないんだ。傷ついてるとこなんか見たくないし、誰にも触らせたくないし、ずっとそばにいてほしいと思う」
 これってどうしてだろ――情けない俺の問いかけに、咲也は綻ぶように笑いながら言った。
「それはきっと、至さんがなまえちゃんのことを大好きだからだと思いますよ」
 ああ、きっと、その通りだ。
 抱え込んだ膝に額をつけて、俺は震える吐息をもらした。

20180526
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