Fire Emblem

拝啓 赤薔薇の貴公子様

 ――するり。滑るような音に続くのは、ぺたり、びしゃりと、何か粘度のあるものをなすったり、水をかき混ぜたりするような音。
 それがいったい何を示しているのかは、ぼんやりと浮かぶ仄かな月明かりの下で作業に励むナマエだけが知っていることであった。
 彼女の脳裏にあるのは唯一無二の幼なじみで、最愛の夫であるローレンツの顔。凛とした佇まいは傍目では傲慢なように見えるけれど、しかし実際は慈愛と配慮に満ちた、とても優しい人である。
 ナマエは彼のことを愛している。幼なじみとしても、妻としても。牢獄のような家からゆっくりと救い出してくれた彼は、ナマエにとってもはや聖者セイロスにも並ぶほどの――否、むしろそれすら凌駕する、神のような人であった。

「もう少し……ううん。もっと、できるはず」

 ナマエの鼓舞の言葉は、月とともに静まりきった部屋のなかでかすかに響く。それ以外に聞こえるのは心地良い風の音や草花の声くらいで、その事実は宝物だらけの鳥かごのようなこの部屋に、ひどく穏やかでゆったりとした時間が流れていることを示していた。
 この部屋から羽ばたこうとは思わない。外は怖いことばかりだから。けれど、飛び立つことこそできずとも、この部屋のなかで出来ることはいくらでもある。今この手にあるものだけでも、いくらだってローレンツにこの想いを伝えることができるのだ。
 だからこうして筆をとった。花冠の節13の日を明日に控えた今日、ナマエは意を決して、絵筆と調色板をとった。
 彼のために。彼に、いっそう喜んでもらえるように。
 かつては姉に虐げられたこの趣味も、ローレンツは許してくれる。歌も、絵も、寓話を書くことも、笑って受け入れて、愛してくれる。「君の一番の支持者はこの僕だからな」なんて優雅に笑って、ナマエの創るものすべてを肯定してくれるのだ。
 諦め癖のついたナマエにとって、彼の与えてくれる声援は文字どおり何よりもの力となってくれる。彼の言葉があるからこそ、今もこうして生きていける。
 だから、この鼓膜に響くローレンツの声が、胸のうちに残るローレンツの言葉がある限り、彼女の手はいっさい止まる気配なく、ひたすら動き続けられるのだ。
 愛する彼のすがたを、この画布に描き切るために。


  ◇◇◇


 ――ねえ、ロニー。ちょっと、あたしの部屋に来てもらってもいいかな。

 そんなお誘いを受けて、ローレンツは相変わらずの高貴かつ流麗な足運びで、ナマエの――愛する妻の部屋にやってきた。
 なんとなく浮足立ったような調子のナマエは、言ってしまえば珍しい。近頃は少しずつ改善の傾向にあるものの、彼女は常に影を背負っているような、耐え難い痛みに喘いでいるような、ある種の“裏側”を匂わせるふうであるからだ。
 けれど、此度の彼女は打って変わって晴れやかな顔をしていて、こんな様子を見るのはいったいいつぶりだろうと――そんなことを、ローレンツに考えさせた。
 そして、思案にふけりながら足を動かしているうちに、あっという間に彼女の私室へとたどり着いていたのである。
 見慣れたはずの彼女の部屋にあったのは、なかなかの存在感を放つ画布であった。もっとも、白布によりすべてを多い隠されてしまっているせいで、そこに何が描かれているのかはまったくわからないのだが――

 いったい何が起きているのか。予想外の出来事で思わず怪訝な顔をしてしまうローレンツに、ナマエはくすりと笑いながら口を開く。

「ロニー、お誕生日おめでとう。これ、受け取ってくれるかな」

 桃色のくちびるから出てきたのは素直で率直な祝福の言葉だった。
 ああ、そういえばそうか、と。日々の職務によりすっかり頭から抜けていたが、今日は他でもない、ローレンツの誕生日であるのだ。
 昨夜、ナマエに作業を理由として同衾を拒まれ、人知れず胸にしこりをかかえながら寝ついたのだが――なるほど、これを創ってくれていたのか。それならば彼女の行動にも合点がいくし、すべてが杞憂であったことへの安堵も得られた。

「ねえ、ロニー。これ、開けてみて」

 ささやくようなナマエの声はあまったるくて、自然に足が動くのと同時に、なんとなく、本当になんとなく、件の物体に近寄ることを躊躇わせた。
 微かではあるが、気迫を感じているのかもしれない。目の前の作品に込められた魂ともいうべきそれに、ローレンツはすっかり気圧されているのだ。
 けれど、にこやかに笑うナマエに手を引かれ、彼はとうとうそれの前に導かれた。ここまできてはもうええいままよと、勢い良く、しかし無遠慮ではないふうに白布を剥がす。ちょうど窓から吹き込んだ風によっていやにはためいたそれは、まるで邂逅のときを焦らすかのごとく、ローレンツの視界を奪った。
 程なくして、風のいたずらに打ち勝ったローレンツが白布を両手で丸めるように畳んだとき。目の前に思い切り飛び込んできたのは、ナマエが描いたであろう、一枚の絵画であった。

「これは――」

 一面に描かれているのは薔薇園である。ナマエの部屋から見える庭によく似た造りであるが、植わっているのはほとんどが薔薇だ。ローレンツが好む真紅を筆頭に、桃色、白、黄緑、それからついぞ見たことのない青など、様々な色や形をした薔薇の花が、しかしいっさいの調和を乱すことなく咲き誇っている。
 その中央に描かれているのが、他でもない本日の主役であるローレンツなのだけれど――画布のなかに立つローレンツは、ひどく穏やかに目を伏せながら、薔薇の海のなかでまっすぐに佇んでいた。
 ……とても、優しい顔をしている。目の前にいるローレンツは、本人が自覚しているより何倍も慈愛や寵愛をそそぐ者の顔をしていて、まるで慈悲がそのまま人のかたちを成したようにも見える。
 けれど、決してか弱そうではない。優しくもあれど、そのまんなかには一本の確固たる芯が通っている。優しさ、強かさ、そして麗しさのすべてを兼ね備えた、ある種の理想ともいえるすがたが、画布のなかに在ったのだ。
 感嘆のため息が漏れる。言葉をなくすとはまさにこのことなのだろうと、ローレンツは喉の奥から声にならない声が、かすれるばかりの吐息が漏れる、そのことを強く恥じた。
 ――いつもだ。いつも、ローレンツは彼女の作品にひどく心を揺さぶられる。心臓を思い切り鷲掴みにされたような、全身を雷に打たれたような衝撃が、一瞬でローレンツのことを飲み込んでしまうのだ。
 絵画に魅入ったままのローレンツに、ナマエはおずおずと、しかしどこか誇らしそうな顔をして寄り添った。

「あたしにとって、ロニーはこんなふうに見えてるんだ」
「ナマエ――」
「いつも自信満々で、堂々としてて……でも、決して傲慢なわけじゃない。周りのことをちゃんと見ていて、そして、いっつも人のために働いて、いざというときはちゃんと守ってくれる」
「……だが、僕は君が一番大変なときに何もできなかったんだぞ。壊れる君を突き放すような真似ばかりしたひどいやつだ」
「そんなことないよ。……ロニーはずっと、ずーっと、あたしにとっての神様なんだから」

 肩の下に目をやると、ナマエはいっさい気を遣ったふうもなく、心から微笑ってくれているように見えた。
 ひどく幼気で愛らしくて、庇護欲を刺激するこの顔――このすがたを出せるようになるまで、果たしてどれだけの時間と労力を要しただろう。それほどまでにナマエが姉から受けた傷は深く、大きく、途方もないくらいだった。
 けれど、その傷が少しずつ薄くなっているのだろう兆しが、ここしばらくで見え始めている。それこそ、彼女がこうして投げ出すことなく、ひとつの作品を完成させたことだって、その証左に他ならない。
 思わず視界が滲むような感覚をおぼえながら――ローレンツは、傍らに寄り添ってくれている、ナマエの肩を抱いた。

「ありがとう、ナマエ。……僕にとって、今日は今までで一番の誕生日だよ。この絵は玄関口に――いや、衆目に晒すのはもったいないな、僕の部屋に置いて、一人で楽しむとしよう」

 ローレンツの言葉に、ナマエは一瞬大きく目を見開いたあと――大輪の薔薇にも負けないくらいの、華やかで眩しい笑みを浮かべたのだった。


ローレンツお誕生日おめでとう
2022/06/13

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