人は良くも悪くも慣れる生き物である。
恵まれた環境だろうと、劣悪な環境だろうと、失うモノも与えられるモノも、すべてを無意識のうちに当たり前だと思ってしまう。そうして気づいた頃には、失ったモノの大きさを知って後悔するのだ。


「はぁ、もういいわ」
めんどくさそうに溜息をついて部屋を出て行った恋人の背中を、カブは呆然と見送ることしかできなかった。
どうしてこうなってしまったのか。きっかけは些細なことだったはずで、もうろくに記憶にすら残っていない。今まで喧嘩することはあっても、ここまで酷くなる事はなかった。大抵、歳上のカブが折れて仲直りすることが多かったし、そもそもカブもナマエも怒りを引きずるようなタイプではなかった。
でも、今回は違った。お互い虫の居所が悪かったせいか、一度火がついたら止めることができなかった。醜い罵り合いの末、ナマエが終止符を打った。カブは昼間の光景を思い出し、自分にはもう残酷な未来しか残っていないのだと悟った。



つい先日、ジムチャレンジが始まった。
カブがジムリーダーを務めるエンジンシティジムは、「ジムチャレンジ最初の壁」と呼ばれるだけあり毎日多くのチャレンジャーがやってくる。忙しいが一生懸命に挑んでくるチャレンジャーとの試合はやはり新鮮で楽しく、ただ一つの不満である恋人のナマエとなかなか会えなくなることを除けば、カブはとても有意義な日々を送っていた。今日もいつもと変わらず、次のジムへ向かうチャレンジャーを見送った帰り道、ナマエの姿が見えた気がして足を止め、後悔した。
満面の笑みを浮かべる男の腕に、同じく笑みを浮かべ腕を絡める女の姿。二十代前後のカップルだろうか、誰が見ても、どこからどう見ても、お似合いだった。


気づけばカブは家にいて、座り心地のいいソファに座っていた。
こじんまりとした部屋に不釣り合いなこの大きなソファは、「これなら一緒に寝れる」とベッドもあるのにナマエが買ってきたものだ。目の前には、これまた大きなテレビがあって、休日の雨の日は二人で映画を見ていた。ナマエは派手なアクションが好きで、ぼくは少し昔のゆったりしたヒューマンが好き。好きな映画を見てはしゃぐ子供みたいなナマエも、ぼくの好きな映画で必死に眠気に勝とうとして結局負けてしまうナマエも、隣で、ずっと見てきたのに。
見間違うはずがなかった。毎日、何度も何度も会いたいと焦がれていた愛おしい相手だ。勘違いだと気のせいだと思い込んで、忘れてしまいたい。カブは強く目を瞑った。目蓋の裏に眩しいほど輝いていた二人の姿が焼き付いていて、忘れられそうになかった。もう、抗うことが出来ないのだろうか。自分から終わりを告げることは嫌でもしたくないから、出来はしないから、いつか本当に訪れる最後まで、まだ隣にいたい。



扉が開く音がして、目を向ければナマエはお気に入りの上着と車の鍵を手にしていた。
「どこに、行くんだい?」
「関係ねぇだろ」
素っ気ないナマエの反応に、我慢できずに答え合わせをしてしまう。その先で自分が1人取り残されるだけと知りながら。
「あの、女の人のところへ、行くんだろう…?」
「は?」
「今日、見たんだ。すごく、お似合いだったよ」
「何言ってんだ」
「ぼく、じゃ、もう…ダメなのかい?」
「ダメも何も、意味わかんねえこと言ってんなよ」
また溜息をついて隣を通り過ぎ、今度は家を出て行こうとするナマエの背中にカブはしがみついた。
「いやだ…っ、いかないでくれ!」
「っ!?」
いい大人が、みっともないと、呆れられたかもしれない。それでも、カブにとってこれが幸せな日々の終わりかもしれないのだ。今まで、共に愛を育んでくれていたことが、奇跡だと理解していたはずなのに。長い時間を共に過ごして、自惚れていた、当たり前だと思ってしまった。いつまでもナマエがぼくを好きでいてくれるはずがないのに。いつか捨てられるなんて初めからわかりきっていたことなのに。もしかしたら、最初から、ナマエにとっては遊びだったのかもしれない。でも、それでも、一度知ってしまった温もりを、そう容易く手放したくはないのだ。
「っう、わかれ、たくない…ッ、」
「はぁ?!本当に何言ってんだ!とりあえず離せ!」
「いやだ!」
離すと、いってしまうだろう。


ぼくの手が届かないところへ。


「あぁーッ、クソ!」
離すまいと力を込めた両腕は、力づくで解かれて、あっけなく終わってしまった。もう立つ気力すなくて勢いよく尻もちをついた。
「大丈夫か!?」
大丈夫、この胸の痛みに比べれば全然痛くないよ。離してしまった、離されてしまった。終わってしまった。苦しい、悲しい、いたい。静かにナマエが出て行くのを待っていたが、予想とは違いナマエはぼくの前にしゃがんで、前髪をぐしゃりとかき乱した後、眉を下げてぼくを見た。
「なぁ、悪かった、ごめん。ちょっとイライラしてて、カブさんに当っちまった」
「…ッ、ぼく、こそッ、ナマエ…に、あたって、……ぐっ、しまったから…すまない…!」
「…お互い様ってことで、仲直りしよう、な?」
「っ、うん、」
仲直り、なんて残酷な。もう元には戻れはしないだろうに。恋人ではなくなったぼくは、ナマエの何になるんだろうか。


ナマエはぼくを膝の上に乗せて、未だに溢れ続ける涙を優しく拭ってくれる。最後くらい迷惑をかけたくないと思っていたのに、優しさが嬉しくて痛い。歪む視界の中で困った顔のナマエが苦しそうな声をあげた。
「なぁ、なんで泣いてんのか教えて。カブさんの泣き顔はもう見たくねえよ…」
お願いだから、泣かないで。なんて、無理なことを言う。あぁ、でも、話をしようか。自惚れた馬鹿な男が、君という世界を失った話を。
「聞いて、くれるかい?」
「うん、聞かせて」
君がいつか、たまにでいいから、ぼくのことを思い出して、そして馬鹿な男がいたと笑ってくれるなら、それで少しはこの想いも報われるだろうから。好きでいることを、許してほしい。


全てを話し終えた後、詰まっていた息を押し出すようにナマエはため息をついて頭を抱えた。
どう、思ったのだろうか。もう終わっていることなのに、怖くなってナマエの肩口に顔を埋めた。最後に、この大好きな温もりを、香りを噛みしめておきたい。この先、こんなにも幸せになることはないだろうから。しばらくそうしていると、肩を押されてまた向き合う形にされた。その気があるのか、ないのかはわからないけど、拒まれたようでまた胸の痛みが増した。
「さっきの話。カブさんが見たのは、俺の姉ちゃん」
「え、」
そう言われてみれば、確かにどこか似ていた気がする。でも、すごくお似合いだったんだ。ぼくとは比べ物にならないくらい、若くて、綺麗で。愛しあってると似てくるっていうじゃないか。でも、もしナマエの言葉が本当なら、つまり。勝手な勘違いでナマエを疑ってしまったことになる。どうしよう、謝らなければ、手遅れに。いや、もう、手遅れだったか…。
それでも謝ろうと口を開いたとき、ナマエが徐に上着のポケットからベルベットに包まれた小さな箱を取り出した。
「本当は、もっと、ちゃんとしたとこで渡す予定だったんだけど」
まさか、そんな。ナマエは驚きで固まるぼくの左手をとって、薬指にそっと指輪をはめると手の甲にキスをした。
「俺には、今までもこれからもカブさんしかいないから。ここで誓わせて」
「ほんとに、ぼくで…いいのかい?」
こんなにも、嬉しいのに、いまだに信じられないぼくがいる。ぼくは隣にいたいけど、本当にぼくが隣にいてもいいのだろうか。愛している自信はあっても、愛される自信を見失ってしまって俯く。


「カブさんじゃなきゃ嫌だ」


そっと頬に手を添えられ、ナマエがしっかりとぼくの目をみて言った。あぁ、大丈夫だ。まだぼくの幸せは終わっていない。
「ぼく、も。ナマエじゃなきゃ、いやだよ」
「知ってる」
満足そうに笑ったナマエにそろりと顔を近づければ、すぐに柔らかい唇が重なって、そして呼吸すら奪われそうなほど深くなっていく。
お互いの熱を確かめ合うように、何度も何度も、愛おしいと全身で伝えてくれるナマエに、今度は幸せな涙が頬を伝った。




だが人は失敗から学ぶ生き物である。
これから先の長い人生、隣にある温もりを当たり前と思わず、お互いの想いを重ね合えば、幸せに暮らせる未来が待っているはずだ。

君の全てがぼくの世界なんだ

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -