悠人:あなたの壁ドンじゃときめきません
side 新開悠人
「じゃあ、打ち上げの買出し係は悠人と楓ちゃん!」
インハイを終えた自転車部。秋の文化祭の準備をして、自転車競技部は毎年恒例だという執事喫茶を行った。部の仕切りを3年生の先輩から引き継いだ現2年生の先輩たちを中心に行った文化祭の後、真波さんがそう口を開いたのだ。
「はあ?」
「悠人、俺、先輩だよ」
らしくないそんな言葉とともに笑顔で部の財布を渡される。
「楓ちゃん一人じゃ重たくって大変でしょ?」
「そんなら、真波さんが一緒に」
「俺は忙しいからダメー」
遅刻ばっかりしてるくせになんでこんな時だけ仕切るんだ、とぶつけるわけにもいかない文句を心で呟いて、結局、彼女と二人、学校から15分程度歩いた先にあるスーパーへ向かう。
「金木犀、いい香りだね」
二人で出かけることになんとも思っていないのだろうか、例えば同じ学年の女子に見つかったら誤解されるかもとか、そういうこととか、なんとかかんとか。
「ね、悠人くん」
「…そうだね」
彼女が、顔を赤くして悠人くんと呼んだのは最初の1週間ほどで、あっという間にその名前に慣れた適応能力に腹が立つ。呼ばれるこちらはその度に何故だかうるさくなる鼓動に戸惑っているというのに。
「ねえ、危ないからこっち歩いて」
車道と歩道を仕切るブロックの上を楽しそうに歩く小学生のような彼女に声をかけると、ピタリと、その場に止まって俺の方を向いた。
「ねえ、じゃないんですけど」
「は?」
「私の名前、ねえ、じゃない」
「………うるさい」
「あ、出た、都合悪くなるとすぐそれ言う」
「うるさい」
元を辿れば、間違いなく、俺が彼女に俺の名前を呼ぶように仕向けた、そしてそれに対して彼女は俺にも彼女を名前で呼ぶようにと言った。
俺は名前を呼ばれる度に身体中の体温が少し上がるような謎の緊張感に包まれて、彼女の名前など呼ぶ余裕もないというのに、この女子は。
「楓って言うの、知らない?」
「知らなかった」
「はい、嘘、インハイの後は呼んでくれたもん」
「うるさいな」
「大体悠人くんが名前で呼んでって泣いてたからそうしたのに、ずるくない?」
「はあ?泣いてないってば」
ああ、もう、だから、雪島楓、嫌いだ、ムカつく。本当に、なんなの、もう。
スタスタと立ち止まる彼女の横を歩いて通り過ぎると、彼女がそのブロックの上を小走りで追いかけてきた。
「ゆーうーとーくん」
「いいよ、もう、新開くんで」
「もう、今更また変えられないよ〜」
「あっそ」
「ね、私の名前は?」
「だから、うる…」
うるさい、と振り向いて言おうと思った瞬間、彼女の体がふらり、とよろける。スローモーションのように動いたその光景に、咄嗟に腕を引いた。
「楓ちゃん!」
車道に倒れるのは避けられた、歩道側に引っ張った彼女がそのまま俺の方へ倒れこみ、情けないことに俺も体勢を崩して座り込んでしまった。
「っ…あ、ごめ…」
一瞬の出来事だった、よろけて歩道に座り込んだ俺をクッションに彼女もその場に膝をつく。彼女の膝は俺の太ももの上、彼女の手のひらは俺の顔の横。
「………」
すぐ後ろの塀に添えられていて、これは、所謂
「………壁ドン………なんちゃって」
そう呟いた後、耳を赤く染めて、下を向いて笑う彼女の息遣いが聞こえて、シャンプーの香りが鼻をかすめて、もう、頭が沸騰しそう。お面が欲しい。どうして持ってこなかったんだ。
「バッカじゃないの」
どうにかいつもの調子を取り戻そうと吐き出した言葉に、彼女がゆっくりとそこを退く。
立ち上がった彼女がパン、とスカートを叩いてこちらを見る。心臓が、うるさくて本当になんなんだ。知りたくないその感情が目前に迫ってきて他のことを必死で考える。
「ごめん、ありがと」
「…危ないから」
こっち、と楓ちゃんの腕を引っ張って、車道側に移動して。
「大丈夫だよ」
「こっち歩いたら、どうせまたここ登るんでしょ」
「ごめんなさい」
「ほんと、子供じゃないんだから。怪我してない?」
「…うん、ありがとう」
彼女のしおらしい姿は珍しくて、ちょっと落ち込んでいるその姿に、少し調子を狂わされる。
「どこ行くの?」
「コンビニ」
すぐそこに目に入ったコンビニに歩く方向を変えると、待って、とそう言いながら俺の後ろをついてくる楓ちゃん、そういえば今日はローファーなんだな、とかどうでもいいことを考えながら、開いた自動ドアを通り抜けた。
「え、待って悠人くん」
慌てる楓ちゃんを無視して、カゴにいちごミルクとオレンジジュースを入れてレジへ。
「ね、ちょっと」
『216円になります』
「悠人く…」
俺がポケットから財布を出すのをみて彼女も財布を探し始めるけれど、どうやら自分の財布は持ってきていないらしい、『しまった』と顔に書いてある彼女を揶揄うように笑って外へ出た。
「はい、これ飲んで」
彼女の手にいちごミルクを押し付けて、オレンジジュースにストローを通す。
「え…」
呆然と、俺がオレンジジュースを口に含むのを眺めているその顔は間抜けで少し面白い。
「元気ないと調子狂う」
「……」
「楓ちゃん」
「え?」
「ってちゃんと呼ぶから」
多分、俺の前でドジをしたことを落ち込んでいるのであろう彼女に狂わされた調子と、さっき壁ドンもどきをされた驚きと、それからシャンプーの香りという男心をくすぐる匂いに、少し頭が甘ったるくなっていたのだろう。
「…ありがと」
いつもなら揶揄ってきそうな楓ちゃんが、さっき転んだ時のように顔を赤くしているのは、何でだろうと、正直そんなこと考える余裕もない俺は、その余裕のなさが彼女にバレないようにと、オレンジジュースを喉に流し込んだ。
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