ぎこちない神様
「神様の便箋?」
「ああ」
インハイを間近に控えた部活終わり、部室に残っていると青八木が紙の束を鞄から取り出した。
「アイツはこれなら言うことを聞く」
神様がなんとかって、そう言えば前、憎めない後輩に聞いたな、なんて思い出す。
「鏑木?」
彼の前に座って問いかけると静かに頷いた。
「オレンジジュースの神様だっけ、なんか前鏑木が言ってた」
「オレンジビーナ」
「ああ、オレンジビーナ」
青八木と過ごすこんな時間もあと僅かなのかなと感傷に浸りながら、目の前の紙に何かを書き始める彼を見つめた。
青八木と出会ったのは3年前の春。
通学に使っていた自転車がパンクして困っているところを手嶋に声をかけられてこの部室に連れてこられた。
ロード用の空気入れは別にあっておそらくママチャリ用のものは誰かの私物だったというのはこの部活に入ってから知ったことだ。
今やこの部活のキャプテンとなった彼から、「空気入れのお礼にさ」なんて、随分のお高い空気入れの代わりにマネージャーにならないかと誘われた私は、何を血迷ったのか、ロードバイクという言葉もその日まで聞いたことがなかったのに自転車競技部のマネージャーになったのだ。
それからは先輩方にも助けられながらどうにかこうにか自転車を勉強して、3年間。この部活を少しは支えられるようになったと思う。
そんな月日を過ごす中、私はこの目の前の彼の静かな中にある闘志と不器用な優しさに恋をした。
「これ、当日鏑木に渡すの?」
そう聞くと彼は少し口角を上げて頷く。
「適宜な」
「鏑木は素直だねえ」
3年になった自覚からなのか、後輩とのコミュニケーションも取るようになったし、笑顔も増えた気がする彼は、なんか少し垢抜けて。クラスの女子の間でも「青八木くんって実はかっこよくない?」とか言われるから本当は気が気でない。でも楽しそうにロードに乗って懸命に前に進み続ける姿を、どんどん強くなっている彼を、近くで見ていた女子は私だけだ。
「インハイまで、あと少しだね」
こうしてたまに部活が終わった後、2人で残って話すようになったのはいつからだったか。いつもは手嶋と部室を後にする青八木が、私の仕事を手伝うと言って残ってくれた日からだったっけ。
部活の話をしたり、クラスの話をしたり。仕事が残っていないのにそれとなく青八木が部室に残ってくれて、2人で過ごすことが増えていく。私も少しはこの想いが実るのではなんて期待してしまったりして。
「そうだな」
まあ、物静かな彼がそんなこと考えてる可能性の方が低いだろうけど。
静かに心の中でひっそりあたためて、いつか彼に当たって砕けるまではこの2人の時間を心置きなく幸せに感じよう、なんて思っていた。
***
「大丈夫?」
青八木が鏑木へのメモを書いている前で、幹ちゃんと2人で作り上げた他校選手の情報を纏めてあるノートを眺めていると、目の前の彼が書いては消して、書いては消してを繰り返し始めた。
「何がだ」
「いや、さっきから同じ紙、書いて消しての繰り返し」
ガタッ!と音を立てて青八木が少し後ろに椅子を引いた衝撃で、彼の手に持っていたシャーペンが落ちる。
「中身、見たか?」
「見てないよ、そんな変なこと書いてたの」
なんて、笑いながら席を立ち、拾ってあげようかとシャーペンの横にしゃがみ込むとそれと同時に恐らく彼も拾おうとしたその手を伸ばしていて、ちょうどシャーペンの上でその手と手が触れた。
「っ…あ、ご、めん…」
すぐ離れればよかったのに、思わず彼を見上げてしまって。
自分が想像していたよりも数倍は近くに彼の顔がある。
「あ、おやぎ…」
さっきまで青八木に英語の宿題がどうとか、インハイが終わったら夏休みは1人映画をしまくるだとか、花火大会に行きたかったのに友達と都合がつかなかっただとか、そんな無意味な話ばっかりぺちゃくちゃと紡いでいた口が全然動かなくなって。
「悪い」
真っ直ぐこちらを見て謝る彼が、もう一体何に謝っているのかもわからない。
「っ…」
スッと、触れていた手の横を通って、彼の綺麗な指がシャーペンを拾う。
その一挙一動が全部綺麗で心臓を煩くさせる。
「姓」
彼はもう椅子に座っているはずなのに、私は立ち上がれない。だって絶対に顔が真っ赤だ。私の心臓、いい子だから静かにして、お願い神様真っ赤な顔を元に戻して、これじゃ青八木に気持ちが伝わってしまう。
脳内でああでもないこうでもないと必死で冷静になる方法を考えるけれど、そうすればそうするほど顔が熱くなっていって。
「姓」
ああ、絶対彼は怪しんでいる。それはそうだ。はあ、どうしよう。
「姓」
椅子に腰掛けて絶対こっちをなんだこいつ、って目で見てるはず。
「姓」
トン、と、肩に何かが触れて。
「…へ?」
思わず振り返ると、そこには私の肩に手をかける青八木の顔。
「っ…」
「…体調、悪いか?」
「え…あ、いや…」
「顔、赤い」
「あ、…あはは、暑いね!部室…はは…」
「少し待ってて」
無表情のまま、彼は立ち上がると部室の外に出ていってしまった。
静かに深呼吸を繰り返して、身体にたくさんの酸素を送り込んで、頬の赤色を取ろうとハンカチで風を送る。
どうにかこうにかおさまってきたか、という時に彼が戻ってきた。
「はい」
俯きがちに彼が机の上に置いたのは、鏑木の神様オレンジビーナと同じシリーズの、レモン味。
「ハニーレモンビーナ?」
「ああ」
ふと、横に目をやると、1枚の紙が裏返しに置いてある。
「…え?」
「暑いから、飲んだほうがいい」
こっちを見ずに彼はそう私に伝えると席に着いた。
恐る恐る、彼が買ってきてくれたペットボトルとその横に置かれている紙をとる。どうやらさっき消しては書いてを繰り返していた紙のようだった。
そこには
『映画も花火大会も、一緒に行こう』
真っ直ぐにこっちを見ていている彼の表情は、今までに見たことのないくらい真剣だけれど少し恥ずかしそうで。ようやく静かになったはずの心臓が、部室中に響き渡るんじゃないかと思うくらいにドキドキする。
「……いいか?」
綺麗な髪がかけられた耳はほんのり赤く染まっている。
「…うん…」
私が頷くと、また静かに微笑んだ。
「座れば」
「あ…うん…」
彼に言われるがまま目の前に座ると、また彼が口を開く。
「姓はいつもレモンティを飲んでるから」
「え?」
「だからオレンジよりレモンがいいと思った」
「……よく、見てる、ね…」
「あとよく蜂蜜の飴を舐めてる」
「ん…」
「だからピッタリだ」
そう言って私の前に置かれたペットボトルを指差すとニコリと笑う。
彼が、私を普段から見ているということを、彼なりに伝えてくれたのだろうか。
「映画は何が観たい」
さっきの紙に書いてあったこと、本気なんだなんて、実感するとまた顔が熱くなってくる。
「…考えておく…ね…」
「花火大会はどこ?」
「あ…なんか東京でやる、やつ」
「わかった」
どうしよう。
「ほ、ほんとに…いくの?」
何言ってるんだ?とでも言いたい顔でこちらを見る彼が小さく頷いた。
「純太にインハイ後の休み聞いておく」
もう色々ありすぎて声も出ない。何度も彼に向かって頷いたあと、彼が書き連ねる鏑木への言葉を見ながら、浴衣買わなきゃ、とか映画の後ご飯行ったりとかするのかな?とかそんなことで頭の中はいっぱいになっていた。