(あ、俺が速いのか) 忌々しい声と同時に、10号―長曽我部―は歩くスピードを緩めた。速度もだが、歩幅の違いも原因だろう。更に運動不足を実感し、自然と元就の眉間に皺が寄った。 「で、あれが多分ゼミ棟。あっちは教務課。ここが第二食堂で、お勧めはカレー」 (今日は夕飯何にすっかなぁ) 「食事はいつも学内で済ませるのか」 苦し紛れに聞かずとも知っている事を質問すると、長曽我部は苦笑してから頷いた。 「家は一応あるんすけど、ほとんど帰らないっすね」 (そういや最後に帰ったのいつだっけ) 報告書に拠れば、長曽我部は大学から5km程の場所にある一軒家を持っている。元より郊外に建つ大学から更に人里離れた場所にある海辺にひっそりとあるそれは両親から相続されたものとされているが、実際は委員会が用意したものであるらしい。それもこれもサトラレ保護の名目だ。そういった嘘で塗り固められた見えない檻の中で、生きている。しかし元就の中に憐れみの情など湧くはずもなかった。 (まぁ、家庭がある訳でもないけど) 「そう言えば、毛利さんは?妻帯者?」 「…独身だが」 「そっかぁ…この職業意外と出会いないっすもんね」 意図せず話題が逸れ、再び先程のような思念が聞こえてくるかも知れないと構えたが(後は何処かあったかな)という声だけだった。見た目に反して、報告書の通りに真面目な性格らしい。取り敢えず視界に入った適当な建物を指差して話題の軌道修正を図った。 「では、あれは何だ」 「あー…グリーンハウスかな、多分。どこの管理かはサッパリ。その奥に見えるのが、あれは天文台って言うんすかね?」 (間違ってないよな…?) 曇りガラスの箱のようなものはつまり、温室らしい。その更に奥に建つグレーの奇妙な半円型の施設は、確かに天文台なのだろう。そのような施設が大学内にあることは意外だったが、所詮は自分に関係のないものだと判じ、そしてすぐに興味を失った。そうして気が付くと、建物から見えていた中庭まで戻っていた。どうやら構内をぐるりと一周して来たらしい。それでもまだ広大な敷地内の一部に過ぎないのだろうが、元就はもう十分だという気がしていた。慣れない会話に加えて思念まで耳に入ってくる状態は、想像以上に疲労感を伴うものなのだと実感する。 (まぁ大体この位で大丈夫かな) 横顔に感じる視線を無視し、辺りはを見回す。芝生や木々に囲まれた中庭には、ベンチがいくつか並び、掲示板、背の高い電灯や時計などがある。この場所はどうやら様々な人間のジャンクションでもあるようだ。その時計の影が足元に長く伸びていた。 「結局関係ない場所もほとんど見ちゃいましたね」 「そうだな」 「関係ある場所の方が少ないからなぁ」 「普段あまり出歩かないのか」 「まぁ、時間を忘れて気が付けば真夜中なんてザラなんで。図書館とか事務には色々世話になってるけど…」 (ん?あれ、今…) 語尾を引き摺りながら長曽我部は少し離れた場所にある茂みの方に視線を止めると、じっとそこを凝視した。つられて元就もそちらを見た。途端、がさりと音がして黒い物体が飛び出して来た。 (やっぱ、猫だ) 「…何だ、猫か」 「おう、お前メシ食ったか?」 黒猫はニャーといかにも猫という声で鳴きながら、長曽我部の足元に纏わりついた。よく慣れている。しゃがんで猫の頭を撫でる長曽我部は、しかし気力のない笑顔だった。 (お前が羨ましい) 「そうか、腹一杯か。良かったな」 (愛されている) 「解るのか」 「何となくですけど」 (あ、やべ…変人扱いされる) 「いや、こいつ学生に人気らしくて…」 「それは便利だな。脳神経学的に是非研究してみたい」 「え?あ、あぁ…そんなこと初めて言われました」 (変に思わないのか…?) 普段、相対する人間の視線に怯えや嫌悪などというもの感じない元就にとって、それは馴染みのないものだった。いくら研究の為とは言え、そんな会話も視線も心地が悪い。最大の結果を得る為には距離を間違えないようにしなければならない、と思った。 「急に手間を取らせてすまなかったな」 「あ、いえ全然」 「では、私は研究室に…」 (何でここで?隣なのに) 「それなら、俺も一緒に戻りますよ」 (やっぱこの人、変わってるかも…でも、) 「…そうか」 (何か、面白いな…楽しかったし) いつの間にか猫の姿は無くなっていた。そうして並んで歩き出した背に、ほんの束の間、本当にその存在を忘れかけていた警備の気配が戻ってくる。ふと見上げた窓に、前田の姿があった。一瞬目が合ったような気がしたが、すぐに奥に引っ込んだ。長曽我部の思考は既に、現行の研究内容に切り替わっていた。元就が羽織った白衣の裾が冷たい黄昏の風を受けて膨らんだ。 #4 第二印象 |