噂がたっているらしい、という話は佐助の口から慶次の耳にも入っていた。学内の生徒や職員の間で“最近サトラレと仲の良い男がいるらしい”というような噂である。そうした噂話は、元親の思念波のように解りやすくはない。静かに、少しずつ歪み、真偽に拘わらず確実に広がっていく。“その男はサトラレの研究を盗む目的で近付いているらしい”“サトラレの友人候補として差し向けられたらしい”というように。そうした警備主任を担う慶次の頭を悩ませる問題は次から次へと休みなしに生まれていた。


「…間違えたくないな、もう」


その独り言を消すように、灰色の雲が覆う空から雨がぽつぽつとフロントガラスに落ちてきた。シートに沈み込むように身を任せた慶次は祈るように目を閉じると、意識を再び集中させた。小さなスピーカーから聞こえる元親の弾むような声が、車内に響いていた。










元就は耳に居座る違和感を無視しようと、窓の外に視線を逃がした。今にも雨粒が落ちてきそうな天気に、これからのことを思って密かに嘆息する。隣の運転席では長曽我部が気軽にハンドルを握り、後部座席には先程寄ったスーパーで選んだ酒やつまみ等が積んである。目的地は長曽我部の家だった。


「車運転すんのも久しぶりだなー」
「大丈夫なのか」
「安心して下さい!」

(人を乗せるのは、初めてだけど)


意外にも心地よい運転だった。機械好きなだけあって車にも強い拘りがあるようだったが、そんな話を聞いていてもいずれ元就の興味を引く内容ではなかった。それに、前田から指示されて仕方なく耳に潜ませた無線イヤホンからいつどんな声が聞こえてくるのかに気を取られ、それどころではなかった。


(でも緊張より、楽しい)

「あ、雨…」


曇天からついにぽつぽつと雨が降り出した。すぐに勢いを増す雨に、ワイパーが忙しく動く。そのうちに車が海沿いの道に出た。見え隠れする海は、遠目からだが荒れているようには見えなかった。


「もうすぐなんで」

(家ボロくて引かれねーかな)


事前に資料の地図で確認していた場所も大体この辺のはずだ。ラジオから六時の時報が流れた辺りから、疎らだった民家がぱたりと無くなった。車は緩やかな坂道を走っているが、知らなければこの先に家があるなどとは到底思えない。ふと、前方が開けて一軒の家が見えた。成る程、古くはあるが海に面して立っているだけあって立派な造りに見えた。


(あ、濡れる)

「ちょっと待って」


長曽我部は車をだだっ広い前庭に適当に停めると、そう言って雨の中を玄関まで走り、鍵を開けて中に入って行った。


(たしか傘がこの辺に…あ、あった)


再び姿を見せた長曽我部は、まるでエスコートでもするように助手席のドアを開け、傘を差し出した。


「先に入ってて下さい」


躊躇しながらも受け取ると、自分はまた濡れるのも構わず後部座席の荷物を取り出しにかかった。
―何のつもりだ。
慣れないその感覚に妙な腹立たしさを覚える。こういう場面ではどう行動することが普通で適当なのか、経験がないから解らない。
元就は少しだけ逡巡した後、その背中に傘を差しかけていた。
ドアを閉めて振り返った長曽我部がようやく気付いて、目を丸くした。


「あ……あ、どうも…」

(うわ…うわ、)

「立派な家だな」
「え、いや…貰い物だし、古いし…」

(何で…何て言えばいいか、わかんねぇ…)


やはり間違いだったのかも知れないと思ったが、深く考えないようにした。長曽我部のそわそわした雰囲気や(うわー…なんだこれ、やばい…キュンときた…)などという思念波も、だから気に止めなかった。


(いやいや何考えてんだ俺!馬鹿か!)

「あ、どーぞ。汚い所ですが」

(あぁ…そういや、この家に人呼んだのも初めてだ…)


その時、元就は初めて気付いた。
付き合いで誰かの家を訪れるとことは、自分にとっても初めての経験だということに。










#9 はじめて

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