その半透明な建物は小さい割に、近くで見ると立派な造りをしていた。こんな日でもあるし、明かりが点いているのならば誰かいるのだろうと思っていたのだが、何故か誰もいないようだった。その上、鍵もかかっていない。 「入っていいっすよね、バレなきゃ」 (前から入ってみたかったんだよな) 扉に手をかけて悪戯っぽく笑う長曽我部を見ながら、筒抜けだと胸の内で呟く。恐らくまだ近くで監視しているであろう警備の人間にも今の声は届いたはずだ。サトラレが秘密など、持てるはずもない。 そうして好奇心に満ちた大きな背中に続き一歩を踏み入れると、そこはコートなど必要ない程の温かさだった。近くで空調の低い駆動音がする。高い天井に届く程葉を広げた南国由来の木々は月明かりを受け、自ら発光しているようにも見えた。 (すげぇ…) 惚けたような感嘆の声が、いやに耳元で響いた。温室という、言わば異空間であるから余計にそう感じたのかも知れない。確かに想像していたものよりも立派だ。低音響く室内に、二人分の足音が混じる。 周囲に気配は感じなかった。 「…誰もいねーのかな」 その言葉に、ある考えが元就の頭を過った。 例えば今、目の前の無防備な首筋に、白衣に忍ばせたボールペンを突き刺したら、どうだろう。例えば、視界の端にある大きなスコップで後頭部を殴ったら、どうだろう。 この男が死ねば、大義名分を得て大手を降って解剖が出来るはずだ。 けれどそこまで考えて、頭は良くないと思った。頭には、あの頭蓋骨の内側には“サトラレの脳”が詰まっているのだから。 それに―…。 それだと全く割りに合わない。 だから今は、実行しない。 今だ暢気に感心している様子の長曽我部から視線を引き剥がし、元就は改めて温室内を見回した。 不思議な、空間だった。 何も温室に入るのが初めてという訳ではないが、そう思った。外界と隔絶された空間だからそう感じるだけなのかもしれない。もちろんそれだって不完全なのだろうが。 (…綺麗だな、本当に) 一体何の事かと思い、反射的に長曽我部に視線を戻してしまった元就は、瞬間、ぎくりとした。一つだけの青い瞳が、じっと此方を見詰めていたのだ。そして目が合うと同時に、何故か気の抜けたように、にこっと笑ってみせた。 (元就サン、こういう場所好きなんだな) 「いい場所っすね」 (誘って、良かった) 「…そう、だな」 心の声は筒抜けなはずなのに、元就は長曽我部という人間の思考が酷く難解なものに思えて、僅かに焦燥感のようなものを覚えた。しかも名前を答えてから、何故か呼称が「元就サン」になっている。違和感しかないその響きに狼狽しつつも、元就はそれに対する最善の反応というものも解らず、結局聞き流すことしか出来なかった。 それにしても―。 今までそうして外部から自分自身のことを指摘されることなど無いに等しい元就にとって、妙な心持ちだった。こんなことが何か研究の役に立つはずもないだろう。だからどうでも良いはずであるのに、心を波立たせてしまう。 元就はそんな自分自身に辟易しつつも、その視線をかわすように天井まで伸びる植物を再び見上げた。 ここは自然が不自然な空間だ、と思う。 人工的な温もりの中で強制的に育てられたこの植物たちは、そんな境遇であることなど知る由もなく、生きている。その生は、他者によって管理されている。 まるで、サトラレのように。 (自然界から、世界から、隔絶した空間…俺も本当は…そうなのかも知れない) どういう意味だ、と喉までせり上がった言葉は、寸での所で止まった。 (見つかったかな) 外に、人の気配がした。 そういえば…と、元就は警備の人間の存在を失念していたことに気付いてはっとした。およそ自分らしくない失態に、夢から醒めた気分だった。ここの管理者である可能性もあるが、どちらにせよあまり長居は出来ないだろう。それは長曽我部も感じたらしかった。 「見つかる前に出ますか」 (もう少し、こうしていたかったのに) 「…あぁ」 この声も、付近にいるであろう人間に届いているのかと思うと、元就は何とも言えず苦々しい気持ちになった。 #7 温室 |