はぁ、と吐いた息が途端に空気中で凍ってしまいそうな、そんな冷え込みだった。さっき空港で目にした気温は氷点下で気が滅入ったが、実際に感じるこの体感温度はそれよりもずっと低いはずだ。革のジャケットや手袋、マフラーまでしていても完全にこの寒さをブロックしてくれる訳ではなく、無防備に晒した耳なんか痛くて触れたら途端に千切れてしまいそうだった。刺すような痛みは少しずつ、頭にまで侵食し始める。マフラーに顔の半分を埋め、ポケットに手を突っ込んで自然に力の入った体を小さくしながら足を早めた。普段なら家を出るのも億劫になるこんな寒空の下を歩いているのは、明確な目的があるからだった。そのために面倒なだけで何の面白味もないデスクワークを、普段もそうしてくれと上司に小言を言われながら奮起して片付けて来た。結局時間がぎりぎりになって手ぶらになってしまったけれど、まぁ問題ないだろう。
ふと見上げた空は寒気を纏った重たい銀色にもかかわらず、雪が落ちてくることは今のところない。今夜ばかりはアメリカみたいにそれを有難いと思うのも、ともすれば少数派かも知れなかった。それよりも目に見える美しさやロマンチックなシチュエーションに重点を置くのが多数派だろう。


「メリークリスマス」


何処かで誰かの声がした。その言葉を耳にするのは歩き始めてこれでもう何度目だろうか。あちこちで交わされる挨拶は今夜が特別な日であるという実感を与えた。
夜の街は重たい雲の下にあって、けれどそれを全く感じさせない明るさに溢れている。この時期の街はどこの国も同じように光り輝き、一様に浮かれた雰囲気で満ちる。一瞬自分の住む街かと見紛ってしまう程の、街中の電力を総動員したかのようなツリーや色とりどりイルミネーション、赤と白の服を着た老人は至るところで見ることが出来た。そんなきらびやかな街を、世界一幸せだと信じて疑わない男女や、今日ばかりは夜更かしを許された子どもたち、寒さでそれどころではないといった感じの労働者たちが交差していく。誰しもがそれぞれに目的を持って歩いているらしい。目的があるということは、確かに幸せな事だ。その幸せを密かに噛みしめながら、アメリカは足早にその目的へと向かった。








「…ついていないな」


古くさいながらも風格のある伝統的な造りの家や、手入れの行き届いた御自慢の庭は近代的なブルーの電飾で縁取られ、チカチカと点滅を繰り返していた。しかし幾つもある窓はどれも真っ暗で、部屋の明かりは一つも点いていない。絶望的な気分でベルを鳴らしてみたが案の定応答はなかった。目的を失った途端に全身から力が抜けたアメリカはドアまで続く石段の一番上に座り込み、膝を抱えた。この寒さに加えて虚しさまで身に堪える。
久しぶりに、しかも今日という日に会えるという期待を高めてしまったぶん、その落ち込みは激しい。事前に何の約束も、連絡さえして来なかったのだから仕方のない事だと理解しようとしても、それにはもうしばらく時間がかかりそうだった。
だって、わざわざ此方の時間に合わせて駆けつけたのだ。自国での最重要イベントを抜け出すのだって物凄く苦労した。降り立ったヒースローは相変わらずそれが目的かのように難解な構造で迷わせ、挙げ句タクシーはどれも先客だらけで掴まらない。仕方なく混雑するメトロに乗って、それからこんな寒さの中を歩いて来たと言うのに。そうやってやっとの思いでたどり着いた家に、彼はいなかった。どんな顔をして驚くだろうかとか、きっと文句を言いながらも喜んでくれるに違いないという考えも、見事に肩透かしされてしまった。けれどそんなことを言ったってどうしようもない。文句なんか言える立場じゃない。そんなこと、わかっている。
そもそもどうして彼が今夜、家に居ると思ってしまったんだろう。しかもそれを今の今まで一度たりとも疑わずにいたなんて、今更この酔いから醒めたような頭で考えてみればおかしなことだど自覚出来る。自分に都合の悪い思考は、きっとここ最近の疲れと浮かれと寒さとで局部的にフリーズしていたに違いない。
じっとしていた体が小刻みに震え出して、アメリカは踏んだり蹴ったりな気分に苛まれた。このままとんぼ返りするにしても、今はもう立ち上がる気力さえ奪われてしまっている。石段に張り付いてしまったかのように足や腰が重かった。そんな調子のまま手持ちの携帯で此方の時間を確認すれば、日付変更まであと一時間足らずといったところだった。こんな時間に彼が家にいないとなると恐らく仕事に追われているか深酒をしているかのどちらかで、そうなると明日の朝、もしくは昼過ぎまでは帰って来ないだろうということは経験上、推測出来た。携帯ディスプレイの明かりがふっと消え、そのまま再びポケットへとしまいこむ。ここにいない彼に自ら連絡をするということは今更だから、もう意地でもしたくはなかった。
そうして玄関前にある小さな階段の一番上に座り込んだまま大きな溜め息を漏らしたアメリカは、家主の不在にも健気に仕事を続ける電球にまで虚しさと同情を抱いた。規則的に点滅を繰り返すその沢山の光の中でどうしようもなく抱えた膝に頭を埋めると、明かりが視界から消え、幸せに溢れる今日の世界に取り残されたような気分になった。
そのまま十数分は経っただろうか。寒気のせいで潤って感じる空気に、カツカツという小気味良い足音が響いた。すでに感覚もほとんどなくなっていた耳であっても聞き間違うはずもないそれが、だんだんとアメリカの方へ近付いてくる。


「アメリカ…?」


かけられた声は、予想通りの人物のものだった。今夜の目的であったイギリスが、帰って来たのだ。
それでもアメリカは簡単に顔を上げることが出来なかった。それは殆んど幼稚な拗ねと意地で、情けなくてみっともないであろう顔を見られたくなかったからだった。それに今口を開けば喧嘩になりそうな言葉しか、きっと出てこないはずだ。


「びっくりすんじゃねーか…お前こんなとこで何やってんだよ」
「……」
「…おい、」


イギリスの声の調子で、当初の驚きが怪訝に変わっていくのを感じとった。それでもまだ、顔を上げることは出来ない。何て情けないんだと思って、アメリカはますます泣きたくなった。どうしようもなくて堪らない。これじゃまるで、本当に餓鬼のままだ。
こうやって諦め悪く、不確かであるイギリスの帰りを待っている間に、思い知っていた。イギリスの存在がどれだけ自分の中で大きいのかということを。


「返事くらいしろ、起きてんだろ」


アメリカが返事をしないその間にもイギリスは捲し立てる。
来る時は連絡ぐらいしろってあれだけ言っただろ、とか。まったくお前のそういうところは全然成長しないよな、とか。俺が帰って来なかったらどうするつもりだったんだ、とか。散々言われ慣れたことを今更言ったって、意味なんか無いのに。けれどもそれは彼の性分らしく、黙ったままのアメリカ相手に口煩く続ける。


「おい、聞いてんのか」
「…遅いよ」


あぁやっぱり。予想通り、いやそれ以上に情けない声と台詞が出てしまった。そのしっかりした口調からも、イギリスは仕事をしていたに違いないのに。これでは八つ当たりも良いところだ。それでも、止まらない。


「…一体今までどこに行ってたんだい」
「…仕事だよ。まったく嫌になるぜ、大体こんな夜にまで……あぁなんだ、お前怖かったんだろ?」
「くたばれイギリス」
「な…てめっ…!」
「ああもう、疲れたし寒いよ!さっさと部屋に入れてくれないかい!?」
「…んだよいきなり煩くなりやがって…」


お門違いの思考を飛ばして今度はアメリカをからかい出そうとしたイギリスに半ば呆れながらも、有難いその流れで顔を上げて立ち上がると直ぐ様イギリスの背後に回り、その背中をドアの前へぐいと押した。彼の言うところの“紳士的”な質の良いコートを着こなしたイギリスはそのポケットから鍵を出し、ぶつぶつ文句を言いながらもドアに鍵を差し込んだ。昔よりも幾分小さく感じるその懐かしい背中を、アメリカは思いっきり抱き締めた。突然のことにびくっと肩を揺らして動きを止めたイギリスは、何も言わずにされるがままでいてくれる。互いに着込んだ服のせいで体温なんて簡単に伝わらないけれど、待ち望んだその存在をしっかりと確かめることは出来た。そして寒さで赤くなっている耳に冷えた唇をつけて、イギリスだけに聞こえるようにそっと囁いた。


「メリークリスマス」


わかっている、と言外に首を回したイギリスと交わしたキスは、堪らなく気持ち良かった。
だから、今までの何もかもは忘れることにする。
だって今夜は、特別な夜だから。
いつの間に降り出した雪が、輝く夜を静かに舞った。





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