※WW2後








目を覚ました日本がそこで最初に目にしたのは、天井の白だった。今の今まで何かの夢を見ていた気がするのにその断片すら思い出せない。目を覚ました途端にそれは霧散してしまったようだった。
やっとのことで首を動かし、顔を照らす柔らかい光りの射し込む方を見た。身体の右側に大きな窓があり、ふわりと薄いカーテンを揺らす風が吹いている。
静かだ、と思った。耳をつんざくような爆音もなければ飛び交う怒号もない。そう思って初めてその違和感に気付いた。耳が、聞こえていない。どうやら聴力が無くなってしまったらしい。しかしその事実に気付いても日本は慌てるでもなく、今一度目を閉じた。それからゆっくりと目を開ける。とりあえず視力の方は何の支障もなく機能しているようだった。
それからようやく自らの身体を見回した。横たわった身体には清潔そうな白い布団が胸のあたりまでかけられ、腕は出されている。なるほど、そこからは幾つもの管が生えていた。それを辿った先に、透明や色のついた液体が吊るされている。まるで自分のものでないようなその腕をぎこちなく動かして、胸や首、顔や頭を触った。そのほとんどに白い包帯が巻かれているようだった。それに気付いた途端、眠っていたらしい痛みが一気に覚醒した。白に滲んだ赤に、目眩がした。


「…生きて、いる」


呟いて、涙が溢れた。みっともない嗚咽を聞かずに済むのなら、この耳も今の日本にとっては有り難かった。








そこは、世界から隔絶されたような場所だった。波の音が絶えず一定のリズムで耳に届き、そこにあとは海鳥の鳴き声だけ。近くに港はないらしく、時折遠くに小さな船影が見える程度だった。
そんな海の見える丘の上にあるらしいこの白い無機質な建物は、決して大きくない造りだった。それらは今日になって初めて知り及んだことである。建物の外の空間は庭と呼ぶのが妥当であるかどうかの判断に迷う程、辺りの自然と一体化していた。こうして外に出ることが許されたのは、目覚めてから五日も経った今朝のことだった。周りの好意を辞し、昼下がりに一人で車椅子をようやく動かした日本は、そこで強い目眩に襲われた。青い空には雲が湧き、太陽が眩しかった。大小様々な木々は健康的に潤った緑色の葉を青空に向けて広げ、くっきりとした葉の影を芝生の上に落としている。正面から届く潮風はこの穏やかな陽気に同調したかのように心地良く、目を閉じて感じるそれらの感覚は優しく傷だらけの身体を包んだ。ちちちっと近くの木で名前も知らない小鳥が囀ずった。あれから徐々に聴力は快復している。どうやら一時的な難聴だったらしい。風が揺らした木々のざわめきに、微かな足音が混じって届いた。


「具合はどうだい」


数歩、距離を置いた背後に彼は立っているらしい。昏睡状態に陥る直前まで散々耳にしていた声音とは随分印象が違った。まるでこの景色に馴染むように、それは穏やかだった。全てが終わった、からだろう。


「よくわからないです」


日本は目も開けず、振り返りもせずに答えた。本音だった。不思議と心は今日の海のように凪いでいる。しかし、戦いに馴れてしまった身体はその感覚を敏感にさせていた。


「そうか」
「あなたは、」
「あぁ…君ほどじゃない」
「でしょうね」


それからしばらくの沈黙が落ちた。距離のある相手の、その呼吸すら感じとれそうな時間だった。それを破って口を開いたのは日本だった。強い意思を隠さないその声は、凛とアメリカの鼓膜に響いた。


「私は、私です。今までも、これからも」


そしてアメリカが何かを口にする余地さえ与えないように微かに笑うと、続けた。


「いずれまた、お会いしましょう」
「…あぁ、また」


短い会話を終え、アメリカの足音はどんどんと遠ざかって行く。笑うんだもんなぁ、という小さな呟きも風の音に消えた。
しばらくして日本はゆっくりと目を開いた。そこには目を閉じる前と変わらぬ世界が広がっている。波の音は絶えることなく、見えないところで鳥が囀ずり、花を揺らした風は舞い上がる。雲は刻々と形を変え、空は有り余る。
目に映る世界は、こうも美しい。
今はただ、想う。
私はいつでも人と共にありたい。
空に海に大地に、そして彼らに、安穏あらんことを。




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