隣でマシューが泣いていた。
これでも声を殺しているつもりなのだろうけれど、同じベッドに寝ているのだから当然気付かないはずもなかった。今夜もつい数分前から始まったそれに、アルフレッドはやっぱりかと心の中で思った。もうこれで何度目だろうか。
顔のよく似たマシューとは、少年と形容されるような歳になった今でも毎日くたくたになるまで遊んで、お腹いっぱい食べて、夜は同じベッドに入っていた。そして電気を消してうとうとし始めると、時々こうしてくすんと鼻を啜る音が聞こえ出すのだ。最初はそれに気付かないふりを決め込んでいた。そのうちに睡魔に誘われるまま、眠りに落ちることも出来た。そして次の日の朝には、隣ですやすやと眠る彼を見てほっとするのと同時に、その目が赤く腫れているのに気付いて胸がちくんと痛むのだ。
そうやってアルフレッドが気付いていることに、きっとマシューは気付いていない。
今夜はきっといっぱい泣くだろうということは、前々からわかっていた。静かな部屋に響くその堪えたような泣き声に、ずきんずきんと自分の胸までが呼応して痛み出し、堪らず両耳を塞ぎたくなった。今こそやって来て欲しい睡魔は、ぎゅっと目を瞑ってみても全くやって来てはくれなかった。でも、それでも今夜はどうしても放ってはおけなかった。それは彼の為なのかそれとも自分の為なのか、アルフレッドにははっきりとわからなかったけれど、とにかく痛くて苦しい胸を押さえつけながら彼に向けていた背をくるりと反転させた。はっとその呼吸が止まった。肩をびくっと震わせ、それから涙で濡れているであろう顔を素早く拭ったようだった。暗がりでよくは見えなかったけれど、彼はきっと不安げな表情をしているに違いないと思った。


「マシュー」
「あ…アル、なに…?」
「どうして泣くんだい?」


無理に平然を装ってみせるマシューに、直球でそう訊ねた。本当は理由なんか聞かなくても、彼がその小さな胸に仕舞い込んだ想いと抱える痛みを、アルフレッドは知っていた。だから今日はきっと酷く泣くだろということもわかっていたのだ。だって今日は“彼ら”が遠いところにある彼らの家に帰ってしまったのだから。案の定マシューは困ったように縮こまり、黙りこくってしまった。だから、核心を口にした。


「フランシス」
「……っ」


わかりやすくもその名前に体を大きく反応させた。その上、いつもはそうやって呼び捨てにすると迫力もなく怒ってくるのに、今回はそれもない。それが彼の答えのようなものだった。
二人の兄としての存在はアーサーだったけれど、フランシスは出会った頃みたいに今でも時々やって来ては主にマシューを可愛がり、保護者面をしていた。我が儘で自由奔放なアルフレッドにアーサーが手を焼いている間、それとは正反対におっとりしたマシューと彼を可愛がるフランシスが一緒にいる時間は必然、多かった。今ではそれも殆んど意図的にそうなるように仕向けてはいたのだけれど。つまり、アルフレッドは気付いていた。もう随分前からマシューがフランシスに特別な感情を持っていることを。そして、自分自身もアーサーに対して同じような感情を持っていることにも。


「おいで、マシュー」


小さくなっていた体を引き寄せ、そのおでこにキスをした。ぴくんと反応したマシューは、今度は声をあげて泣き出してしまった。それでも、それはあまりに控え目な泣き声だった。
思えば自分達が今よりまだまだ小さな頃、よくこうして身を寄せ合って泣いていた。あの頃はまだ、もっと単純な感情が原因だったけれど。それが今では少し懐かしく思えるのは、成長したからだろうか。そうだと嬉しい。
それからマシューの体を包むようにして、髪を撫でてあげた。あまり自己主張の得意でない彼の、唯一の自慢である髪はサラサラで、フランシスのそれによく似ていた。この髪を褒められて彼に弄ってもらっている時の顔は、どんな時よりも一番幸せそうだった。あの頃のように両手をぎゅっと握ると、今度はマシューの方から体を寄せてきた。その温もりに、考えないようにしていたアーサーのことが思い出されて、今にも涙が溢れそうになったのをぐっと堪えた。初めて知った感情は、アルフレッドを少しだけ大人にしてくれたような気がしたけれど、実際は全然違った。こんな風に弱くなるばかりだった。


「もっと早く大きくなりたいな…」
「…うん」


ずっとずっと、そう願っていた。
彼らにとって自分達はまだまだ子どもなんだということは、嫌というほどわかっていたから。同じだけ大きく成長したら、守られてばかりの腕の中から抜け出して対等になりたい。出来れば守ってあげたい。そして、弟としてではない存在として彼の側にいたい。その為に強くなりたい。だから泣きたくはないのに。それでも寂しさは拭えない。胸の痛みは無くなってくれない。


「ありがとう、アル」
「僕はヒーローだからね」


そうやってようやく落ち着いたらしいマシューが笑ってくれたから、アルフレッドは痩せ我慢をしてもっともっと笑ってみせた。それなのに、


「ヒーローだって、泣いていいんだよ」


優しい声とともに、肩を包むようにして頭を撫でられた。そんな風に、アーサーがするみたいにされると、もう駄目だった。溢れた涙が止まらない。ゆっくりと、さっき彼にしてあげたみたいなキスが額に降りてきた。
あぁなんだ、そうか。僕はなにもわかってなかった。マシューは気付いていたんだ。
やっぱり僕らは兄弟だな、と言うとマシューはくすりと笑った。しばらくその柔らかな手に甘え、堪えていた涙を流せば、数分後には随分とすっきりとしてしまった。ありがとうと礼を言うと、マシューは微笑んだだけで何も言わずに首を振った。それから何故か言いにくそうな仕草を見せた後に呼吸を置いて、恥ずかしそうに呟いた。


「いつかは恋人のキス…したいなぁ」
「…出来るさ」


だって願いはいつかきっと叶うんだぞ。願うんじゃなくて、叶わせてやるんだ。だからきっとハッピーエンドさ。それまでは涙の一つもないと、つまらないからね。その夜、アルフレッドはそう言ってマシューと一緒に笑った。








あれから幾年が過ぎただろう。彼の隣には今、あの男が立っている。見ているこっちが恥ずかしくなるくらい、とっても幸せそうな顔をして笑い合っている。そうやって遠くからぼんやりと盗み見ているうちに、二人はキスを交わした。


「あ…」
「おい何見てんだ…って、ああああんのクソ髭!」


今にも飛び出してフランシスの髭を毟りにいかんとする腰を掴んで引き留めた。今ではもう、片腕でいとも簡単に彼の動きを封じられる。


「まぁまぁ、落ち着きなよ。それより俺らもあれに対抗しないかい?」
「な…ふざけんな馬鹿…ッ!」


それからほら、こうやって簡単に口を塞ぐことも出来る。
ねぇ、マシュー。
ヒーローが言ったことはやっぱり正しかっただろう?





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