「兄さん」


寝ているのか、と続けようとして、しかしドイツはそこで思いとどまった。プロイセンがその眉間にぐっと皺を寄せて身じろぎをしたからだ。どうやら眠っているのは間違いないらしい。代わりに小さく息をついてから、派手に肌蹴ていたシーツを胎児のように丸くなった身体に掛け直した。いつからこうだったのか全く気がつかなかったが、先程まで煩いくらいに話しかけてきていた兄を無視して部屋にまで持ち込んだ仕事に没頭しているうちに疲れてそのままドイツの部屋のベッドで眠ってしまったらしい。部屋の隅にあるアナログ時計で確認すればすでに午前一時過ぎを指していた。古い時計の針が動く音が聞こえるだけの、静かな夜だ。カーテンを引いていないままの窓の外にはインクを溢したかのような暗闇が広がっている。それでも気付かないうちにまた新しい一日が既に始まっているのだと当たり前のことを考えながら、再びベッド上のプロイセンに視線を戻した。
その一瞬、妙な感覚に捕らわれたドイツははっと息を呑んだ。
そして今度は躊躇する間もなく目の前の身体に手を触れた。間違いなく、彼の中の心臓は規則正しく拍動していた。それを確認してようやく安堵の溜め息をついたドイツは、ならばどうしてと思わずにはいられなかった。どうしてあの一瞬、兄さんが生きていることを疑ってしまったのだろう、と。暖かい体温と肉体があって、ちゃんと動く心臓がある。それは間違いなく目の前にあった。何がそうさせたのかはっきりとした理由を見付けられないまま、金縛りにあったように兄の身体に触れていた手を離す。と同時に、閉じられていた目蓋がゆっくりと開いた。潤いのある赤い瞳が少しだけ揺れて、すぐに目の前のドイツに固定される。その中に映る自分を確認してから、少しだけ無理をしてドイツは笑った。


「よぉ…もう終わったのか?」
「…あぁ、終わった」


普段とは違う、落ち着いて柔和な声は間違いなく寝起きの状態だということを証明していた。ベッドの横に膝をついて覗き込むドイツの頬に手を添えて、幸せそうに笑う。そんな兄に、けれどやはりどこかはっきりとしない不安がドイツの中で頭をもたげていた。


「お前もはやく眠れ。そしていい夢を見るんだ」
「…夢を見ていたのか?」
「あぁ…ここにはもう居ない色んな奴がいたぜ」


優しい表情はそのままで、それはまるで眠れない子どもに言い聞かせるようであり、けれどその瞳は目の前のドイツではなく、どこか別の場所を見ているようでもあった。言葉にならない想いが喉に貼りついて黙ったままでいたドイツの手を、掴む手があった。


「ヴェスト」
「…なんだ」
「お前が生まれてから今まで…まぁ離れていた時もあったけどよ…でも俺達はずっと一緒だったよな」
「突然、どうしたんだ…」
「お前は、俺だよな?だって、俺はお前だから」
「…なに、」
「わかるか、ヴェスト…俺が生かされている意味が」


ずっと考えていた、と続けてプロイセンはまた少しだけ笑った。まだ寝ぼけているのかと疑いたかったが、それはとても半分眠りかかっている人物の言葉とは思えなかった。これまで意識的に触れることを避けていたそれを、突然鷲掴みにされた気分だった。脈絡なく無防備を突いた兄の意図が判らず、戸惑いと胸苦しさを押し殺してドイツはようやく口を開いた。


「そんなもの必要ない」


不意打ちにも程がある。なにより性質が悪すぎる。そう非難する声が頭を占領していたけれど、口から出たのは拗ねた様に情けない響きを孕んだ言葉だった。もし言い訳が出来るのなら、それを兄も同じだと思っていたからだ、とドイツは思った。わざわざ自ら進んで触れる必要などないと思っていた。だからこそ、次々に溢れる言葉が厳しい声になることも仕方がなかった。そもそもこんな状況でするような話ではない。


「意味や理由なんてものは要らない」
「…聞けよ、ヴェスト」
「聞きたくない。兄さんは生きている、それで十分じゃないか」


プロイセンは頼りなく眉根を寄せ、まだ何か言いたげに弟であるドイツを見つめていた。どう否定的に捉えても慈愛に満ちた眼差しが心を見透かすようで言葉を詰まらせたドイツは、冷静さを欠いていたと自省し、話題を変えようと努めたがなかなか上手くはいかなかった。どうしても、目の前のいつもと同じでいるようでどこか違う兄に戸惑い、それを受け入れられなかった。やがてそれを察したかのようにプロイセンはふっと笑うと、観念したように肩を竦めた。


「そうだな、それでいい」
「…兄さん」


決して納得したはずなどないのに、それ以上はもう何も言わなかった。ただ幸せそうに微笑んだまま、ドイツを見つめるだけだった。カチカチとまるで何かを急かすように時計の針の動く音がやけに大きく耳に響く。不意にベッドの上の温もりがゆっくりと動いて顔を俯けたままのドイツの頭をくしゃりと撫でた。その前髪を乱して幼さを取り戻したような弟の姿に満足したのか、プロイセンは悪戯っぽく笑った。


「ヴェスト、兄さんにキスをしてくれ」


一瞬驚きに固まったドイツだったが、言われるがままその額にそっとキスを落とした。そして少しだけ逡巡して、唇にも同じように触れた。身体を離して目が合うと、急におかしくなってドイツが照れたように笑い、つられてプロイセンも破顔した。


「なんだ、何かおかしいか?」
「あぁ、おかしい。だって俺たちは兄弟だ」
「馬鹿だな…友達でも恋人でもない、兄弟だぜ?」
「…なんだ、その理屈は」
「理屈じゃねぇよ…ヴェスト、わかるだろ?お前と俺はずっと一緒だ」


言い終わらない内に目を閉じてしまったプロイセンは、またすぐに寝息を立て始めた。やはり今までの会話の半分は寝ぼけていて、朝になれば全く覚えていないということも有り得ると思ったが、けれど今となってはそれもどうでも良いことだった。ドイツはその小さくも大きくも見える手の甲にキスをしてから、そっと囁いた。


「あぁ、そうだな…おやすみ、兄さん」


変わることが必然のようなこの世界にあって、それでも変わらないものが確かにあると貴方が言うのなら、それを信じたいと思う。そしてたとえそこがどんな場所であろうともきっと、ずっと貴方と共にありたい。
眠ったはずの兄が、くすぐったそうに少し、笑った気がした。



(終わらない僕たちの行方)


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