甘い水煙草のフレーバーを纏った男は行き先を告げるとすぐに大きな欠伸をした。それから目頭を揉み、溜め息をつく。どうやら随分とお疲れのようだ。車を発進させようとしたフランシスはつられたらしい欠伸を噛み殺した。


「兄ちゃんはあれかぃ?いつもこの時間に働いてんのか」
「え、あぁ…はい」
「へぇ、偉いなぁ」


それは皮肉ではないようで、本当に感心しているような表情がルームミラーの中にあった。それでフランシスは何気なくその客を観察した(これはもう職業病と言ってもいいと自覚している癖だ)。
彫りの深い顔に髭がよく似合っていた。一目では厳ついおっさんという感じではあるが、目元がその印象を和らげている。目的地や身なりから判断するに高給取りに違いないのだが、いやらしい感じが全くしないのはこの人懐こそうな人柄のせいか。街中のタクシーを拾うということにも慣れているようだ。
そんなことを考えながらフランシスはステアリングを操作し、無意識に煙草に手が伸びそうになるのを何とか堪えた。


「夜に働くっつーのに、理由があんのかぃ?」
「……まぁ、」
「そうかぃ」


突然の質問に答えを窮すると、けれど男はそれ以上何も聞かなかった。そして自嘲気味の苦笑いで続けた。


「俺ぁどうも駄目だな、明るくなって起きて暗くなって寝るっつーのが身についちまってる」
「それがいいですよ」
「そうだな…実は今も結構辛い」


その台詞にフランシスは思わず笑った。その人も笑いながら目を閉じたのがミラー越しにわかった。
一歩踏み込んだような会話が嫌ではない、そう思わせるものが彼にはあると感じた。それはきっと本人も気付いてはいないのだろう。戸惑いよりも、どういう訳か多分の興味を引かれた。しかしそのせいか、曲がれば近道になるはず角を気付いた時には通り過ぎてしまっていた。今日の自分はどうかしていると気を引き締め直そうとした時、寝ていると思っていた後部座席から耳障りのいい声が届いた。


「でもあんた、この仕事が好きなんだろ?」


またも不意打ちでどきりとさせられたフランシスはしかし、平静を装ってから、逆にどうしてそう思うのかと問うた。瞳は閉じられたまま、返ってきた答えは「楽しそうだ」だった。再び虚を突かれ一瞬呆けたフランシスは照れ隠しに似た苦笑をした。
静かな車内に不思議な心地良さを感じながら車を走らせ、目的地に到着すると彼は代金と礼を寄越してから、さらに何かをフランシスの手の中に滑り込ませた。


「ほらよ」
「え、なに…」
「疲れたときゃこれが一番だ。じゃ、またな」
「ちょ…っと…」


狭い車内から長身を解放して、彼はもう振り向かずに歩いて行ってしまった。残されたフランシスが手のひらを広げると、そこには赤い包装紙に包まれたチョコレートが乗っていた。あの風貌とその可愛らしいものとのギャップに思わず笑いが込み上げる。


「怖いなぁ…」


お釣りを受け取らず、お菓子まで握らせられ、あまつさえ「またな」だなんて言われた経験はない。何より今日はじめて会ったはずの彼に大いに絆されそうになっている自分に戸惑った。手のひらに乗った見るからに甘そうなチョコレートの処遇について、フランシスはしばらく一人で思案に耽った。




(Ankara/甘い匂いの人)
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