頭上を覆う屋根のような木の葉が生き物のようにざわざわと不気味な音をたてて揺れていた。その重なり合った葉を透かして夏の日差しが僅かに見える。足元まで届く細い光は斑に点在して、少年にほんのささやかな安心を与えてくれていた。先程まで嫌というほど感じていたべとつくような蒸し暑さは、今は微塵も感じない。むしろ、全身にかいた汗がひんやりとした空気に乾かされて身震いしてしまいそうなほどだった。 「ぜ、ぜんぜんこわくないし…」 少年は自分に言い聞かせるようにそう呟いて、止まってしまいそうな足を気力で動かした。 もう随分歩いた気がするのに、見える景色はずっと変わらない。前も後ろも右も左も、見渡す限り名前も知らない木があるばかり。楽しかった時間が一転、不安や恐怖に押しつぶされそうになりながらも必死にピンク色のワンピースを握り締めて耐えた。どうやら夢中で遊んでいるうちに知らない道に迷い込んでしまったらしいということに薄々気付いてはいた。ただそれを認めたくないという意地だけで少年は今もその正しいとも間違っているともわからない歩みを進めていた。 もしかしたら、もう二度とここから出られないかもしれない―…。 考えないようにしていた不安が一気に押し寄せて堪えていた涙が込み上げた、その時だった。 視界の端で背の低い木の葉がざわと揺れて、何かの気配がした。涙が一気に引っ込み、緊張に体が強張っていく。逃げも隠れもすることがかなわなかった少年はその場に立ち尽くし、その気配の方へ視線を固定するのがやっとだった。 「きみ、まいご?」 「ひゃっ…!」 ひょこっと木の陰から顔を出した人の姿に、体が跳ね上がる勢いで驚いた少年の口からは心臓の代わりに妙な声が飛び出した。 その気の毒な様子に、顔を出した人物は申し訳なさそうな笑みを浮かべながらその姿を現した。 「驚かせてごめんね」 少年よりも上背のあるその人物は、一見男女の区別がつきにくい容姿をしてた。海のようなブルーの双眸に肩まであるブラウンの髪。しかしその身に纏った衣装が男用のそれだと知っていた少年は、軽いパニック状態の思考でもかろうじてそう判断する事が出来た。 そのふんわりとした笑顔や雰囲気には、害など微塵もなさそうに見える。それでも、見ず知らずの人物に恐れに近い感情を抱く少年にってそれは警戒を解く決定打にはならなかった。 「そうだ、これ見てごらん」 何も言わずに向けられる視線に警戒と畏怖を感じ取ったらしい彼がそう言いながら歩みを進めると、再びびくりと少年の体が揺れた。その数歩前まで歩み寄った彼が握っていた手のひらを、少年に見えるようにしてゆっくりと開いた。 「あっ…」 「綺麗でしょ」 少年は手のひらに視線を釘付けにしたまま、無意識に首を縦に振っていた。 そこにあったのは親指の先程の小さな琥珀だった。歪ながらも丸い形をしていて、表面が滑らかなのは見た目でわかる。なによりその独特の色艶に、少年は目を奪われていた。 その様子を、少しの驚きと多くの満足で眺めていた彼は、ワンピースの裾を握り締めていた少年の手を取るとそのままその手中に琥珀を収めて微笑んだ。 「これ、君にあげる」 「えっ…いいん?」 「うん」 驚きながらも嬉しさに顔を綻ばせて、少年は手のひらの琥珀を様々な角度から熱心に観察し始める。そこに警戒というものは既に存在していないようだった。 彼はその白に近いゴールドの髪や琥珀を映すグリーンの瞳を改めて近くで見て、とても綺麗だと思った。琥珀よりもずっと、この目の前の存在に惹かれているということに自分自身で気付いてしまう程に。 「おれ、リトアニアっていうんだ。君は?」 それまでの手のひらからリトアニアと名乗った彼に視線を移した少年は、まるで見たことも無い生物を目の当たりにしたというような表情を見せた。しかしすぐに先程までの警戒は微塵も残さず、その瞳に今は好奇さえ湛えて、ポーランド…と小さな声で言った。 「ポーランドっていうんだ。よろしくね」 「うん」 「で、ポーランドはどこに行こうとしてたの?」 その一言で今まで忘れていた目的を思い出したのか、ポーランドははっとしたように目をぱちくりとさせた。それから手の中の琥珀をポケットに入れたかと思うと、湧き上がった感情を溢れさせたようにリトアニアの腕にひしと飛びついた。よろめいた彼を気にするでもなく興奮したような声を上げたポーランドの興味は、既に切り替わったらしかった。 「うみ!なぁ、うみみたことある?」 グリーンの瞳にありとあらゆる光を湛え、無邪気なまでの視線が向けられる。驚きよりもその美しさに戸惑ったリトアニアは、けれど少しだけ考えて首を横に振った。それを見たポーランドはぱぁっと顔を輝かせ、嬉々として掴んだ腕を揺さぶった。 「このちかくにうみがあるんよ!こんなところおらんでいこう!」 「え…うん、でも…」 「でっかくてあおくって、でっかいんよ!」 「あの…ポーランドは迷ってたんじゃなかったの?」 リトアニアのその言葉に、はたと動きを止めたポーランドは羽根をもがれた鳥のように勢いを失い、わすれとったし…と呟いたきり俯いてしまった。その今にも泣き出してしまいそうな程の落ち込み様に、そうさせてしまったリトアニアは慌てて笑顔を投げかけた。 「あ、ちょっと待って!多分…あっち、じゃないかな?」 今まで自分が背にしていた方角を指差したリトアニアは、不思議そうな顔で首を傾げているポーランドにその答えを与えた。 「ほら、よく聞いて。波の音が聞こえる」 「…あ、本当だ!」 再び羽根を取り戻したらしいポーランドはずっと掴んでいたリトアニアの腕を離し、そのまま右手で右手を握り締めた。 「いこう!」 その右手と高鳴る胸に後押しされて、リトアニアはポーランドと共に駆け出した。 きっとこうなると期待して、僕はあの時小さな嘘をついた。 そのまばゆさに目が眩むけれど、決して目を逸らすことが出来ない。こんな海みたいなきらめきはこれまで見たことがなかった。 前を走る君の細くて明るい髪が太陽に透かされ、揺れながら輝いていた。 どれだけ見つめても飽きることの無い、僕だけの海がそこにあった。 「リトみたいにでっかくて、あおいんよ!」 そう言って君が僕に笑いかけた、その瞬間から僕は君の手を離せなくなってしまったんだ。 |