未知、足りるの続き





あの時―ほんの数年前、私にとって彼は言わば神聖な存在だった。
優しすぎる無垢な子どもであったし、この身の不浄を何も知らなかった。
しかし今、目の前の少年は確実に大人へ近づいている。
否、子どもではなくなっていく。
これまで何度失敗しても懲りずにこうしてお茶に薬を仕込むことも、挨拶代わりとなった。
その変化は緩慢なようでいて実は掴む事が出来ない程に急速なものなのだと、今更になって気付く。
変わっていないのは、そこがいつも学園の保健室だということ位だ。


「君は本当に変わったね」
「えーそうですかぁ?どんなところが?」


こういうところが、と言うと伏木蔵は目尻を下げて何故か満足気に笑った。それから僅かに身動ぎをし、下から私を見上げた。此方を伺うように首を傾げる。その仕草に、ぞくぞくとした背徳感のようなものが腹の底から這い上がった。


「嫌いですか、こういうの」


思わず口端が上がる。
彼の眼前に晒した己が皮膚はあの頃と変わらず醜いものだったが、それでもこの数年で包帯の替えが減った事は大きな変化と言えるのかもしれない。歴代お人好しの保健委員達の賜である。その私の内股に、まるで意味深長な手つきで薬を塗布している細く白い指を掴んで引き寄せた。体勢を崩して胸に寄りかかる恰好になった伏木蔵と、目が合った。
嫌いじゃないよ、と鼻が擦り合う距離で笑うと、近づいて一瞬止まった呼吸がすぐに肌を擽った。


「正直ですね」
「あぁ…本当に君は、綺麗になったね」


下ろし髪を掬って唇を寄せると、また笑った。けれどそれがどういう笑みなのかは、解らない。いつからか、解らなくなってしまった。耳元に唇が触れた。


「嘘つき」


囁くと同時に、顔を覆う包帯が弛められる。
この身の不浄を、清浄は何ともないように包み込む。
普段眠らせる必要もなく眠っている感情が、それに感応する。
その事態にはもう、笑うしかない。


「困ったね」
「ふふふ、困っちゃいましたかぁ?」


まるで気にしていないように笑う伏木蔵に一瞬、この空間を支配されたように感じて苦笑した。それを面白がるように、白く冷たい指が唇をなぞる。
こういう事は、今まで決して望んだことはなかったし、今でも望んでいる訳ではない。
そうやって今一度自分自身に確認をする。
遊ぶ指を絡め取り、覗き込んだつぶらな瞳の中で、部屋をささやかに照らしていた灯りが揺れていた。


「でも…だったら、僕の勝手で良いですから…遊びましょう?曲者さん」


―あぁ、なんて狡い大人だ。
目の前の存在が私にそう突き付ける。
遊びなどでは済まない事を、彼は知っている。
そして理解した。
否、認めた。
私はもう、とっくに―


「伏木蔵」


薬で少し痺れた手先を伸ばしてその頬に触れる。名前を呼んで反応した身体を緩く、優しく拘束した。するとようやく安心したかのように伏木蔵が目を閉じて、私の手に頬擦りをした。とても、綺麗だった。


「君は美しいよ」


一瞬泣きそうに顔が歪んで、視線が逸らされる。それを許さず、唇を塞いだ。たとえそこに毒が仕掛けられていようとも、今は構わない。
ゆっくりと唇を離すと、何時ものような笑みが戻っていた。
その微笑みに、軽い目眩がした。


「すごいスリルでしょう?」


どうやら痺れたように感じたのは、毒のせいではないらしい。
また背に積み重なった重みを感じながら、頷いた。


「うん、すごくいいね」
「ふふふ」


君は笑う。
私も笑った。



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