哀切を帯びたように真っ赤な色をした彼岸花は、気が付けばそこから姿を消していた。今はそれと入れ替わるように咲いた金木犀の芳しい匂いが辺りの空気を満たしている。凛と冷えた空気に柔らかな陽光が心地良く、木々もようやくちらほらと秋の色を付け始めた。
その療養所は海を見下ろす丘に立っていた。一日中、波の音と海鳥の鳴き声や海風に揺れる木々のざわめき位しか聞こえない。近くに港はなく、時折遠くに船影を捉えることが出来る程度だ。質素で病的な白い建物は大きくも小さくもなく、世界から隔離されたようなそこに存在していた。特筆することと言えばそれから、空気が澄んでいることだ。
秋も深まったその日、新たに入院してきた一人の男の担当医に突然三郎が決まった。しかもそれは患者からの指名があってのことだと知らされ、大いにいぶかしんだ三郎は果たしてどんな物好き患者だろうかとカルテを確認し、その目を疑った。男と三郎とは同じ年齢で、何よりその古くさくて珍しい名前は忘れもしない。学生時代からの友人であり、若い頃にはそれ以上の関係を持った男のそれと、全く同じだった。
昼下がりに訪れた病室でその姿を目にして疑念は確信になった。あれから数十年。その間、一度たりとも顔を合わせることもなく、互いに歳をとっていたが、どうやったってその男を見間違えるはずもなかった。ベッドの上に半身を起こし、窓の外の景色に視線をやっていたのは八左ヱ門だった。
病室の扉を入った所で立ち尽くしていた三郎に気付いて振り向いた八左ヱ門と目が合った。その瞬間、まるで写真のように二人の動きが止まった。そのままどれだけ見つめ合っただろう。その間も遠く窓の向こうでは海鳥が鳴き、柔らかい秋の陽光が白いシーツの上に日溜まりをつくっている。その永遠に続きそうな沈黙を破ったのは八左ヱ門だった。


「久しぶりだな、三郎」
「…あぁ」
「…眼鏡、してるのか」
「老眼だ」
「お互い…歳をとったな」
「無理もないさ」


何て言ったって、半世紀も生きた。
笑った顔はあの頃から変わってはいなかった。彼を纏う雰囲気は歳のせいか随分穏やかになって、一層そのおおらかな人柄を際立たせている。そうして何十年振りに交わした言葉は、少しの気まずさも感じないくらいに穏やかだった。




八左ヱ門の病は既に手の施しようのない末期のものだった。そしてその事実を本人もしっかり理解していた。この施設にやって来る時点で、それは他の患者も殆んど同じようなものだった。つまり、この施設への入院は手術などでの治療が目的ではない。ここの医者が出来ることはごく僅かなことに限られている。例えば最期の最期まで少しでも痛みや苦しみから解放してやること。医者として秀でた才を持ち、周りから将来を期待されていた三郎がこの場所での仕事を選んだのは、大きな組織ではよくある馬鹿同士のちんけな覇権争いや、自分の利益しか目にない人間の出世主義にも嫌気がさしたからだった。そうした雑音のない、静かな所で働けることが出来ればそれで良かった。それに、死を目の前にした人間の最期の過ごした方に少なからず興味があったこともある。
他の多数の患者と同じように、八左ヱ門にも悲観的な様子は見られなかった。昔、一番の友人として過ごしたあの頃のように、屈託なく笑っていた。あれからどんなに長い月日が経ってもそれは変わらず、それが呆れる程に八左ヱ門らしいと思った。
けれどやはり歳と病のせいで当然に体力は衰えており、日中ベッドにいることが多かった。そして三郎が病室を訪ねるといつも決まって一人静かに窓の外を眺めていた。その胸にどんな想いを抱いているのかなど、所詮は他人である三郎に推し量ることは出来ない。代わりに、時間は全てを緩やかにすると、そんな八左ヱ門を見て確かに実感していた。今まで長年会わずにいたのが嘘のように、まるで最後に別れたのが昨日のことのような錯覚さえ覚えた。けれど、あの友人として過ごした時間について笑い話しをする事はあっても、どうして自分のいるこの場所に来たのか、それだけは未だに聞けずにいた。





八左ヱ門が入院して一週間。益々匂い立つ橙色の小さな花の香りが、風に乗って病室まで届いていた。そんな穏やかな昼下がり、回診に訪れた病室で八左ヱ門はまた一人静かに窓の外を見つめていた。建物の前には庭ともつかない自然な木々があるだけで視界を遮るものもなく、眼前には太陽の光を浴びてきらきらと輝く水面が広がっている。
その横顔は随分と痩せたみたいだ。大きかったはずの背中が、随分と小さく見えた。


「回診だぞ」
「…なぁ、三郎」


その横顔にも、確実に過ごした年月が刻まれていた。
薬品の匂いの染み付いた三郎の白衣を、窓から迷い込んだ風がふわりと揺らす。


「人の死なんてさ、一生関わっても慣れることなんかないよなぁ…」


三郎の知らない年月。八左ヱ門の送った人生。それを集約したような言葉だった。三郎は掛けていた眼鏡を外し、傍らにあるパイプ椅子に腰かけた。八左ヱ門の病室を訪ねてくる人は入院してきてから一人もおらず、それが使われたことはなかった。獣医師だった八左ヱ門に家庭はなく、親類や友人たちには遠い街に引っ越しをすると嘘をついて何も真実を明かさずに出てきたのだという。犬みたいな男のくせに、まるで猫のような死に方だ。


「怖いか」
「…命あるものには必ず、死がやって来る」
「答えになってないな」
「…俺はどうしようもなく無力で、目に映るものさえ危うい。その全てを抱えきることなんて出来ないんだ」
「……」
「…怖かったよ。だから俺は、逃げたんだ…お前から」


目が合う。止まった数秒で、数十年を一気に遡る。


「お前には、感謝している」
「…なんだ、急に」
「それが言いたくて、余命を知った日からお前を必死で探した」


間に合って良かった、と笑う八左ヱ門に不意を突かれてばかりの三郎は、言葉を選べずにいた。
ただ、と続く。


「一つだけ後悔があるとすれば、あの時、お前を引き留めなかったことだ」
「…それを言うなよ」


今度は、笑った。二人して、心の底から穏やかに。もう何もかもが無条件に許される年月が経ったのだと実感する。今になって、凪いだような自分の気持ちはとっても素直だ。


「…どうして結婚しなかった」
「身軽な方が楽な気がした…なんてな。まぁ…出来なかったよ」


自嘲と共に優しい眼差しが向けられる。けれどすぐにそれはあの頃にも時折見せた真面目な表情になる。


「あれから恋愛の一つも、出来なかった。ずっと…昔も今も、俺はお前一人が好きなだけだ」
「……」
「あの時、これが言えれば良かった」


あの頃は若かった。怖いもの知らずでいたはずの二人にも、抱えきれなくて諦めたものは沢山あった。今更そんな事を言ったって時間は戻りはしない。それはお互い、苦しい程よく理解していた。


「お前は昔から器用だったから、まっとうに結婚して家庭を持ってるもんだと思ってたよ」
「…必要ない、そんなものは」
「三郎……お前、一人で死ぬなよ」


それだけが、俺は心配だ。
からかうには余りに真剣な眼差しに、三郎はたじろいだ。この歳になって、こんな想いをしようとは思わなかった。


「…余計な世話だ」
「そう言うと思ったよ」
「だったら言うな」
「ありがとな。お前に出会えて、本当に良かった」
「…口説くなよ」


穏やかな顔で笑った、それが最後の会話だった。少し寝ると言って目を閉じたまま、八左ヱ門はもう二度と起きなかった。そうやって殆んど苦しまずに逝った。その死に顔はとても安らかで、今にもあの太陽のような笑顔が浮かびそうだった。





八左ヱ門の身辺は整理するまでもない程の身軽さだった。看護師達が忙しく動き回っている間、三郎は何気なくベッド横の引き出しを開けてみた。そこに思いがけず一枚の古い写真を見つけた。その中で若いままの二人が笑っていた。
何も知らない事が幸せだった頃。あれから楽しかった時間よりも、苦しんだ時間の方がはるかに長かった。後悔なんていくらでもあった。それでも八左ヱ門に出会えたこと、好きになったこと、それだけは後悔してない。
その二人でとった最初で最後の写真を、三郎はそっと白衣のポケットへ忍ばせて病室を出た。





数年後、生涯独身を貫いた三郎は同僚に見守られながら同じ病室で息を引き取った。
少ない遺品を整理していた看護師は古びた一枚の写真を手にし、まるで幸せを閉じ込めたようだと微笑んだ。
その秋は、とても暖かかった。








(患者と医者)

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