これから三次会に雪崩れ込むらしい先輩達に、それほど酔っていない上に一番若いからという理由で、いい具合に酔いのまわった上司を家に送り届けるという仕事を任せられた。確かに若いのは認めるが、酔っていないのではなく酔えなかったという方が正しい。それこそ彼らの注文やら会計やらで忙しく動き回っていたからだ。それと言うのも一番の新人であり後輩という訳で、まぁ結局すべてはそこに立ち返ってしまうのだから文句のひとつも言えやしない。あまつさえその本人に、送ってよと笑顔で頼まれればもう拒否権はない。二人分の荷物を片手で持ち、もう一方の腕で上司のそれを支えながら簡単に年の瀬の挨拶をしてその場を辞した。今日が仕事収めだった為、再び彼らに会うのは年明けになる。


「しっかり歩いて下さいよ」
「もう歳かな」
「まだまだ若いじゃないですか」
「それ君に言われてもねぇ」
「あぁ…それもそうですね」


その人が笑い上戸だというのは新しい発見だった。そのなんの面白みもない返事にさえ、あははと笑い声をあげるのはその証拠だ。
忘年会シーズンで妙に浮き足立つ夜の街をスーツ姿の男同士が腕を絡めて歩くのはさして珍しい光景ではないが、これがなかなか骨が折れる。当然酔っ払いの足どりは心許なく、意識は散漫になる。夜の繁華街にはよく見かける目の眩むような光を放つ看板や明滅を繰り返す電飾。さして珍しい訳でもなく何気ないそれらに、何故か子どものように忙しく目を転じている様を見ればこの人が自分よりも一回り以上も年上のしかも上司であるということを忘れてしまいそうだった。あぁこれは珍しく本当にいい具合に酔っているなと、その様子を隣で見ながら思う。今夜は珍しい事の連続だ。この上司が酔って付き添いを要するということもそうだが、普段はこうして二人きりで、ましてやこんなに近くでその人を注視することなんてない。意外にしっかりした体つきだとか、微かに匂うコロンの香りだとか、新しい発見ばかりに気を取られた。本人はと言えば、そんな不躾な視線にも気付かないでいる。
しかし今はそれをただ歩くということに集中させなければならない。いちいち細かいことに、それこそ子どもにするように注意を飛ばしながらも、ようやく最寄の駅に辿り着いた。彼の住まいは同じ沿線にある自宅よりも三つ手前の駅らしい。その事実に今更ながら驚いていた。朝の通勤や帰宅の電車で彼と同じ電車に乗り合わせたということが今まで一度もなかったことが不思議だったが、朝は通勤ラッシュで誰が乗っているかなんて顔を見る余裕もないし、部長と新人の退社時間が同じということもほとんど稀であるから、それも有り得ることだろうという考えに落ちついた。
いっこうに定期を取り出すそぶりを見せない彼にその在り処を尋ねると、自らのコートのポケットに視線を落とした。自分の着ている安物とはまるで質の違うそれは、それでいていやらしい感じがまったくしない。きっと身に纏う人の影響が大きいのだと思わせた。迷わずそこから黒い財布を取り出して彼に手渡すと途端に苦笑され、何もそこまでする必要もなかったのだとようやく気付いた。意外にもしっかりとした足取りで先に改札を抜け、電車の発着を知らせる電光掲示板を見上げる背中に言い訳をしたい衝動を抑えて改札を抜ける。隣に並びながら時計を確認してほっと息をついた。なんとか最終には間に合ったようだ。


「冷えますね」
「酒のせいかな、そうでもないよ」

普段はこの変わった上司と二人きりになるということはほどんどない。若くして大勢の部下を抱える彼は、典型的な管理職に有りがちなお堅い人種の類ではなかった。普段はやる気があるのかないのかという様子でありながら、部下の不始末は体よく処理をする。その有能な上司を皆が尊敬し、慕っている。更には自覚のないらしい茶目っ気があり、人望も厚い。それでいてどこか掴みどころがなく、謎めいている。その言動は酔っていても健在らしい。ホームに着いて間もなく到着した電車に乗り込み、並んで座席についてすぐのことだった。


「うん、丁度いいね」


彼が頭を預ける自分の肩の高さに対する評価はどうやら及第点らしい。しかもこのまま寝るつもりなのか、その目は閉じられている。運よく乗り込んだ最終電車は意外にも人影はまばらだったが、それにしても大の大人が恥ずかしげもなくそんな行動をとるにことに些か戸惑った。それはつまり、憧れの人が自分を頼っているという普段はあり得ない現在の状況のせいだ。それが酒のせいだと頭ではわかっていても、嬉しいという感情は恥ずかしげもなく生まれる。憧れや親しみ、それとは明らかに違う感情も、自分のすべてが彼に向いているのは最早明らかだった。
けれど、


「こんなに遅いと奥さんに怒られたりしないですか」
「んーどうだろうね。大丈夫じゃないかな」


左手の薬指に光るシルバーリングは彼にもうひとつの顔があることを暗に示していた。それは初めて彼と会った時から既にそこにあったから、自分よりも彼とリングとの付き合いは長いのだ。その適当な答えにさえ、他人が立ち入れないような深い絆や信頼なんてものを感じずにはいられない。この想定外の“仕事”は、正直に言えば自分から申し出ても良かった。ただひとつ、気を重くさせるそのことを実感してから後悔したって遅いのだけれど。そんなことを知る由もない彼はその独特の笑い方で突飛な事を言い出した。


「諸泉くんってさぁ、よく見たらかっこいいね。モテるでしょ?」
「…モテませんよ」
「へぇ、そうなの?勿体無いね」


一体何をもって勿体無いと言うのだと疑問だったが、酔っ払いの発言をいちいち真に受けては馬鹿をみる。それでなくとも彼は普段からからかい癖のある人だから尚更だ。


「若いのに面倒見もいいし、きっといい奥さんになれるよ」
「…私、男ですけど」


あぁそれは残念、と笑うその本意はどこにあるのか。そもそもそんなもの存在しないかもしれない。そんな会話も途切れてそっと視線を向けると、依然その目蓋は閉じられたままだった。結局そのまま数駅をやり過ごした。
しばらくして降車駅がアナウンスされ、速度が緩められた。最早立つことさえ渋りだした彼を支えて、到着した駅のホームに降り立てば、雪でも降り出しそうな程の寒気が二人を迎えた。










正直、聞いていた住所に近づくにつれ、気分は重くなっていた。もうとっくに日付も変わっている。それらを目の当たりにしまえば決定的な何かを突きつけられるようで怖かった。覚悟もつかないままにそれらしい立派なマンションを前にし、すぐにでも立ち去りたい気持ちに駆られた。


「…じゃあ、私はここで」
「あれ、最後まで面倒みてくれないの?」


こういう台詞を真顔で言うのだからほとほと始末が悪い。こちらの心情などお構いなしだ。けれどそれを断れない自分はどうだ。その自覚がさらに追い討ちをかけた。
結局、彼のプライベートな空間へと足を踏み入れて、逆に彼から遠ざかったような気分を味わった。それでもそれはどうしようもなく、玄関で言われるがまま靴を脱がせる為に膝をついた。しかしそこで、ふとした違和感を抱いた。それに気づいたかのように、目の前に座った彼はシルバーリングを外しながら笑った。


「これね、実はフェイクなんだ」
「…う、そ?」
「そう。こう見えても独身」
「なん、で…」


理由は、便利だから。その一言で、しかし全て一瞬で理解することが出来た。つまりこの人は人にモテるのではと言っておきながら、自分自身はとんでもなくモテるのだ。それが分かった途端、とんでもない脱力感に襲われた。今まで自分を止めていた理由が少しずつ剥がれ落ちていくような気がした。まだ幾つもの枷があるにも関わらず、自由に放たれたと勘違いした感情は自分で考えていたよりも激しかったことに気付く。目の前で面白そうに笑みを浮かべていたその愛しい人の腕を掴んで、抵抗をされぬうちにキスをしてしまっていた。見た目よりもずっと柔らかく、自分のそれによく馴染む気がして我を忘れそうになりながらも、どうにか唇を離した。正面から目を合わせる。どんな言葉も甘んじて受ける覚悟だった。


「うん、悪くないね」


けれど、それはあまりにも有り得ない反応だった。


「どうして…そんな、余裕なんですか」
「伊達に年とってないってことかな」
「…まさか酔ってるってのも、」


考えすぎじゃない、と不敵に微笑む彼は今、上司だとか男だとかそんなものを何一つ感じさせなかった。それで自分の中の何かが完全に切れてしまった。さっきよりも容赦なく口付けて、その体に触れた。
もしかして気付いていた?もしかして誘導されていた?
明日には私たちの関係はどうなっているのだろうか。きっとそんなに大きく変わることはないだろう。
そんな不確かな疑念が浮かんだけれど、今はそんなことよりも。


「だったらもう、何も考えません」


そう言うとまた、貴方は笑うから。















彼を目の前にすれば、全てが些細な事に思えた

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