その報せを耳にしたのは、日が西の山に沈みかけてからだった。呼吸を乱し、顔を青ざめさせながら必死に何事かを伝えようとする藤内の様子に、すぐに嫌な予感がした。疲弊しきった藤内を三之助に任せ、医務室へと走る頭の中はともかく忙しかった。様々な考えが生まれ、育ってはそれを新しい考えが打ち消した。深刻な事態なのだということは信じたくなかったけれど、理解できてしまった。


「くそ…!」


焦る足が縺れそうになる。こんな時、広すぎる学園が憎らしかった。走っても走っても全く進んだ気がしない。そんなもどかしさに苛つきながら必死に医務室を目指した。廊下は走るなと教わったけれど、そんなこと今は全く頭になかった。あったとしても守る気は毛頭ない。
最近はそれが原因の大きな出来事もなく平穏な毎日だった為に忘れかけていたのだけれど、こうしたどうしようもない焦燥感に襲われるのは残念ながら初めてではない。そしてその度に、決して人には愚痴や弱音を漏らさない数馬のことが心配だった。運というどうしようもないものが相手だから、もしかすると本人も諦めているのかも知れなかったけれど…だったら、だからこそ、やはり自分の前では本当の感情を晒したり、我慢しないで欲しいのにと思う。数馬の性格上、それが簡単ではないことくらい理解しているつもりだ。それが出来ないのは少なからず自分にも原因があるとも思う。けれど…。
そうやって頭を駆け巡る様々な思考が絡まり、思わず大声を上げそうになったまさにその瞬間。医務室の扉が目に飛び込んだ。


「数馬!」


捉えたのは衝立の向こうに敷いてある布団の白だった。どくんと大きく心臓が跳ねた。乱れていた呼吸が上手く出来なくなる。鼻につく独特の匂いの先、恐らく薬を煎じているであろう善法寺先輩に軽く頭を下げてから、震えそうになる足を動かした。そして目にした、布団に横になっていたのは紛れもなく数馬だった。あれほど大きな声でその名前を呼んだにも関わらず、閉じられた目蓋は開かれてはいなかった。


「…数、馬」


目の当たりにしたその姿に、今度は素早く血の気が引いていく。頭の広範囲に渡って巻かれた白い布は、右目をも覆い隠していた。顔にある擦り傷や切り傷、夜着から覗く柔らかく小さな手にもそれらが見受けらる。
容態と原因、そればかりが頭を渦巻いていた。不明なそれらが煽る不安に身がすくみそうになる。そうして呆然と立ち尽くしていた背後から落ち着きのある声が掛けられた。


「薬の効果か、今はよく寝ているね」


はっと我に返り、善法寺先輩に詳しい話を聞けば、授業で行った山のちょっとした崖から足を滑らせたらしい事が分かった。ちょっとした、がどのくらいのものなのか検討もつかずに頭の中で様々な映像が考え出され、ぞっとした。


「目蓋を少し切っただけだよ。少し大袈裟だけど、皮膚が薄くて血が出やすいからね。体の傷も大したことないし。ただちょっと、頭を打ったみたいで…」
「え…!?」
「少し気をやったみたい。それもしばらく安静にしておけば、大丈夫だから」
「そう、ですか…」
「僕はこれからちょっと出て来るから、数馬の事よろしくね」
「…はい」


そう言って先輩が出て行き、室内に二人きりになった。普段はきっと意識してしまうような状況でも、今は様々な事が頭を巡る。けれど、不思議なほどその顔は穏やかだった。そうしてようやく訪れた小さな安堵と共に、胸がきゅうっと狭くなった。ほっとした途端、今度は無意識に手が動いた。自分より幾分か小さくて柔らかな、そして傷だらけの手にそっと触れた。好きな人の手が、温かい。そんなことは当たり前だと思っていた。けれど違った。本当はそれは、奇跡のようなことなのだ。それがどれだけ幸せなことなのか。そう思ってもう、堪らなくなった。一気に込み上げた涙が、我慢できずに溢れた。


「…泣いてるの…?」


突然のその言葉に、咄嗟に顔を上げた。見れば、いつの間にか数馬の心配そうな目が此方を向いている。色んな感情が入り乱れて、更に涙が溢れた。不安そうな色を浮かべながら、自分の体の方が大変な時にこんな俺を案じている。乱暴に涙を拭いながら、思った。ああ…そうだ、これが数馬という人間なのだと。そうだけど、


「頼むから…」
「…作、」
「…無理をするな」


それによって損なわれる笑顔が、絶えることが怖いと思った。失う恐怖というものは想像の範囲には決して収まらないだろう。途方もない。こんなことになって、実感しなければ思い知ることもない。わかっていたつもりでもその実、覚悟すらろくに出来てなどいないのだ。心のどこかで、あり得ないという甘い考えがあったのだ。そんな自分の甘さが、後悔にならないように。


「…ごめん、ごめんね」


不意にその手が頬に触れた。それで情けないことに、膝上に握り締めた拳が震えた。


「お前はさ…ちゃんと泣いたり、してんのか」
「僕は……いいんだ。ただ、僕のせいで誰かに迷惑がかかって…それが一番辛いから…」


やっぱり、どうしようもなく数馬は優しすぎる。自分自身の事よりも、いつも誰かの事を考えている。そんな優しさが自身を苦しめている。だけど俺はそんなこいつが好きなんだと、改めて思う。そして数馬の見えない不思議な力が、俺を変えた。


「お前は、気付いてないだろう」
「え…?」
「普通の人が見過ごしてしまうような小さな事に気付けたり、それを幸せと感じたり…それは誰にでも簡単に出来ることじゃない。だからそれが出来る数馬はとっても幸運なんだと俺は思う。そしてそんな大切な事を周りにも気付かせる力を…お前は持ってる」
「…っ」
「俺は気付いたよ」


一気に言い終えて、その大きな目から溢れた涙にぎょっとした。初めてそれを見たのは、数馬の告白に頷いた時だった。そして、普段どんな災難にあっても決して泣かない数馬が見せた、これが二度目の涙だった。こいつは弱くはないけれど、決して強い訳ではない。それを、少なくとも自分だけは分かっていてあげなければならないのだと、思った。


「…腫れるぞ」


次々と堰を切ったように溢れる涙を拭おうとした数馬の手を掴んで、それを制した。寄せて見つめる瞳には自分の姿しか映っていなくて。それは当たり前の事なのに、どうしてこうも幸せなのだろう。柔らかい頬に手を添えてその唇に自分のそれを重ねれば、涙の味がした。数馬の、その全てが愛しくて、言葉にしようとしても出来そうもなかった。きっとこの気持ちに見合う言葉なんて存在しない。どうやったって伝えきれない。けれど、自分のことに鈍感な数馬に、これを仕舞っていたって意味がないから。だから、少しずつでも伝えたい。


「しょっぱい」
「…う、あぁ…やだ…ごめん」
「どうして?」
「…だって、恥ずかしい」
「ばーか、心配すんな」


柔らかい髪を手にとって、それに口付けた。不器用だから上手な伝え方とか分からないし照れ臭いけれど、それは精一杯の誓いだった。

「どんなお前だって、俺は好きだから」
「…、うん」
「俺の中のお前の大きさ、知らねぇだろ」
「……ごめん」
「ん?」
「僕、幸せだ」


そう言って、泣き濡れた顔がようやく笑った。それは自分が知るどの笑顔よりも、綺麗だった。










君を想うだけで、それは簡単に訪れる


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