残業帰りにふらりと寄ったのは大学時代からの友人が経営する小さなバーで、終電間際にも関わらずテーブル席にはまだ数人の客がいた。マスターという肩書きの似合わない友人はそれらしくカウンターでグラスを拭いていて、すぐにこちらに気付くといつもの快活な笑顔で名を呼んだ。それに応えながら、そう喜ぶこともないだろうと思う。何せ自分はこの店に週の半分は通ってやっているのだから。


「今日は随分と遅いな。今帰りか?」
「おー」


カウンターの一番奥の席に座ってネクタイを緩めながらいつものカクテルを強めで頼むと、何故か八左ヱ門が怪訝そうに眉を寄せた。それにつられて自分の眉間にも同じように皺が寄るのが分かった。


「なぁ、兵助…何かあった?」
「…何で」
「何か、変」
「あー…フラれた、かな」


適当な嘘だ。大体、そんな相手がいないことくらいこいつも知っているから、それに何の意味もないのだが。しかしそれをまるでこの世の終わりのように言えば、益々難しい顔をした八左ヱ門が持っていたウォッカを置いてこちらに手を伸ばしてきた。そっと右頬に触れ、親指が目の下をひと撫でしてからゆっくりと離れた。その間、瞬き一つも出来なかった。


「疲れてるな…また無理してんだろ」


これはよく八左ヱ門の言うことで、自分自身のそういうことに全く疎い兵助は言われて初めてそうかもしれないと気付くことが多かった。けれど、今日はそれもどうやら少し違う気がした。自分でもその実体をはかりかねていた。それにしても、どうしてこうも聡いものかと感心してしまう。もちろん長い付き合いということもあるのだろうが、果たしてそれだけだろうか。
その自分自身でさえはっきりと解せない感情の正体。例えばそれは、


「…なぁ、八」
「ん?」
「こんなことってないか、」
「…どんな?」
「生活は充実していて何の問題もない。飯や酒も旨いし、至って健康だ。いい友人もいる」
「…あぁ」
「だけど…足りないんだ。何か…心の中にずっと埋まらない穴があって…それが何か、分からない」
「……」
「…なんてな、冗談だよ。そんな顔をするな、似合わない」


ああ…おれは何を言っているんだと我に返ったのは、よほど返事に困ったような顔をした竹谷に気付いたからだった。途端、失敗したと思った。また自己嫌悪の材料を増やしてしまった。咄嗟に笑って誤魔化したけれど、それはもちろん冗談などではなかった。けれど冗談にしてしまえると思った。出来ることならば、したかった。それなのに、


「あぁ…わかるよ」


何故その時、気持ちが少しだけ楽になったのか分からなかった。不思議な顔で微笑んだ八左ヱ門をどうして切なげだと感じたのかも、分からなかった。















それから少しして最後の客も帰り、店内には店じまいを始めた八左ヱ門と二人きりになっていた。その自分より幾分も大きな背をぼーっと眺めながら、つくづく羨ましいと思った。社会人の象徴的な白いシャツは自分と同じではあるが、その首にネクタイはない。その代わり腰には黒いエプロンが巻かれている。男の自分から見ても、格好良かった。好きなことを生業にして、毎日迷いなどないように笑う。きっと彼にはネクタイは似合わない。それが独善的な憧れであることは理解している。その上で、心底彼を羨ましがった。当の八左ヱ門はこちらに背を向けたまま、テーブルに椅子を上げている。とっくに終電なんか逃した。酔うにはまだ足りない。今日は帰りたくないな、と胸の内で思った時だった。


「兵助、明日は?」
「休み、だけど」
「だったら泊まってけよ。軽く夕飯作るし」
「…おー」
「天気よさそうだし、明日はドライブにでも行こうぜ!」


どうしてこいつはいつも、こうなのだろう。どうしていつも、欲しい言葉を欲しい時にくれるのだろう。本人は無意識に違いないが、もう驚きや可笑しさを通り越して感動さえ抱いてしまいそうだった。


「…お前、いい男だな」
「へ…?」
「惚れるよ」


思わず口にした言葉は、けれど全て本音だった。振り返った八左ヱ門は完全に呆けた顔で、その一切の動きを止めてしまっていた。それを大袈裟な反応だという思いは、すぐに掻き消された。離れた場所にいた八左ヱ門が、急にづかづかとこちらに近づいてきたのだ。思わず身構え、なにか不味いことを言ったのかと頭を巡らせているうちに、がっちりと両の手首を掴まれた。


「…酔ってんのか」
「…酔ってねーよ。大体お前さ、酒いつもより薄くしただろ」
「……天然か」
「何だよそれ…こんなんじゃ全然酔え…」


言葉を、盗られた。突然だった。掴まれていた腕は背後の壁に張り付けられ、何が起こったのか脳が理解する前に、重なった唇を割って熱が入ってきた。


「…っん…」


静かな店内に、頭がおかしくなるような音だけが響いた。しかし不思議と嫌ではなかった。それどころか、いつの間にか自分も必死にそれを求めまさぐっていた。思考がついていかない。溺れそうになる。緊張していた身体から次第に力が抜け、壁に預けた背がずるっと滑った。それでようやく唇が離れた。


「……」
「……」


上がった呼吸を整えながら、濡れた口元を拭って椅子に座り直した。目の前の顔は見れないまま、しかしその八左ヱ門も他所を向いて顔を覆っているようだった。


「…ごめん」
「……」
「あーなにやってんだ俺…」


自分とは違う、見たのは彼の後悔だった。頭を抱えて唸る八左ヱ門を知り目に、グラスに残っていた酒を一気に煽った。こんなもの、すぐに後悔してしまうようなただの戯れだったのだと理解しようとした。けれど、どうしてこの胸は、こんなにも痛むのだろう。


「…八の方が酔ってんじゃねーか」
「違っ…!」
「酔ってんだろ?それでいいじゃん」
「……」
「…もう一杯」


頭が混乱するどころか、すっと醒めていくのが分かった。いくら勢いや雰囲気のせいにしてみても、この激しい痛みには理由が付けられなかった。
再びぐっと手首を掴まれた。グラスを見つめたまま、言葉を待つのが怖かった。


「…違うんだ」
「……」
「俺は酔ってない…素面だし、悪ふざけでもない」
「…もういいよ」
「よくない!」


初めて聞くような怒声に、思わず見た八左ヱ門の顔にはっとした。今まで見たことのない彼がそこにいた。困ったような表情で、何かを我慢しているようにも見えた。


「俺、兵助のことが…その…好きだ」


突飛な言葉に、呼吸を忘れた。一瞬停止した思考が、次はぐるぐると混乱し始めた。何か言おうとすればするほど、何も出てこなかった。一体何なんだ、意味が分からない。


「…好きなんだ」
「……意味分かんねぇ事、言うな」
「分かるよ…なぁ、分かるだろ?」
「……」
「好きなんだ」
「……もう一回」
「好きだ」
「もう一回」
「好きだ。ずっと、好きだった」
「……あぁ、」


分かった。それはパズルの最後のピースがはまるように、ぴったりと心に馴染んだ。それを受け入れてしてしまえば、どうして今まで気付かなかったのだろうとさえ思えた。途端に恥ずかしくなった。馬鹿だな俺、と笑って外そうとした視線は、八左ヱ門によって阻止された。頬に添えられた手は少し、震えていた。何を今更、と笑ってその手に自分の手を重ねて頬擦りをした。この愛しい馬鹿の存在が自分にとってどれだけの意味を持つか、深い所ではとっくの昔から分かっていたのかもしれない。思えば、気付かせてくれるのはいつも八左ヱ門だった。足りないのは八だったんだな、と呟いてその手のひらにキスをした。胸が愛しさに疼いて、高鳴った。


「…もう無理…我慢出来ねぇ」
「な…」


突然、更に切羽詰まったような声と共に影が動いた。そしてまた、奪われていた。文句のひとつも言えやしない。けれど今は、そんな言葉さえ必要ないような気がした。



「兵助…」

「…っ」



唇を合わせながら、大きな手が身体を這い回る。スラックスからシャツの裾を引っ張り出したその手が、恐る恐るというように中に入って来た。高揚して熱を持った素肌を、同じように熱くて大きな手が愛撫する。初めは窺うようだったキスや手の動きが、次第に抑えがきかなくなったように激しくなってきた。自分を求める八左ヱ門の興奮が耳から伝わり、その感覚にぞくりとして嬌声が漏れた。その甘い官能的な吐息に、八左ヱ門は更に激しく求めた。兵助の全てを確認するかのように、その舌が、その手が、動いた。


「八…もっと…」


呼吸の為に唇が離れた途端、兵助は上がりきった欲情の含んだ声で請うた。耳元で好きな相手にそう煽られては、今まで人畜無害で通っていた八左ヱ門の理性も綺麗に吹き飛んだ。


「…天然め」


兵助の首に纏わりつく邪魔なネクタイを取り去って、ボタンを外しながら、再び唇を重ねた。静かに流れる背徳的な恋を唄った曲の中で、溶け合うほどの熱に、満たされた。
ようやく空白が埋まった気がした。








(バーテンとリーマン)

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