今日から普段の生活に戻ることが許可された兵助にとって、一番嬉しかったのは授業に復帰出来たことだった。休んだ間に進んでいた授業内容に付いていくのは大変ではあったけれど、これからはそうしてますます勉学に励めばいいと思えた。三郎と雷蔵が教室に顔を出して、次の休みには町に甘味を食べに行こうと誘ってくれたりもした。こうして何もかも忘れて、この心も平穏になれと願った。すぐには無理でも、きっと時間が経てば大丈夫だ。そう、思ったのに…。 その夜。湯浴みも終え、休んでいて遅れていた分と今日の授業の復習、明日の予習をようやく片付け終えた直後だった。 「兵助、ちょっといいか」 気を抜いていた体が一瞬にして緊張した。紛れもない、廊下から自分を呼んだその声は竹谷のものだった。跳ねた体と心が、どくどくと激しく脈を打った。 そしてすぐに、どうして、という想いが渦巻いた。あんな事があったのだ、もう話すこともないと思っていたのに…。しかし話すことなど、核心の他にないことは分かっていた。けれど、もしあの態度の理由を聞かれても、もう決して口にしないと心に決めていた。きっとあの時が最初で最後の機会だったのだ。だがそれさえも出来なかった。だからもうこれ以上、ただ竹谷も自分も苦しめるだけの迷惑な感情などは、必要ない。 兵助はその声に返事をしなかった。しかし、暫くして戸がすっと開いた。ふわりと迷い込んだ初夏の心地よい夜風が兵助の頬を撫でて、その顔を上げさせた。そこには目にしただけでまた胸が狭くなる、その原因である竹谷が同じように夜着を纏い、立っていた。少しやつれたような、けれどその真剣な眼差しに、すぐに耐えられなくなって文机に視線を落とした。竹谷が一歩、部屋に踏み入れるのがわかった。 「…体、良くなってよかった」 「……」 「…俺は…あれからずっと、兵助のことばかり考えていた」 痛い、苦しいと胸が悲鳴をあげていた。耳を塞ぎたくなる衝動を抑え、膝の上でぐっと拳を握り締めた。 「でも…、もっとよく考えてみたら、ずっとずっと前から俺の中は兵助のことだらけだった」 その言葉に今度は惑った。こいつは一体何を言っている。当然、理由を聞かれると思っていたのに。また、そうやって邪魔をするのか。どうしてこんなに揺らがせるのだ。何度、どんなに頑張っても、これではどうしようもないじゃないか。おれは馬鹿だから、いっそあんな風にはっきりと拒絶してくれたままの方が良かったのに。今更そんなこと言って、何がどうなる。そんなの、互いに傷付くだけだろう。兵助は顔を上げられないまま、強く握って白くなった拳を見続けた。 「なぁ、兵助…俺は…」 「…竹谷、お前は自分で自分を傷付けることをしている。そういうのは、よくない…」 「…そんなことない」 「…そんなの、どうしてわかる」 「俺は、兵助が好きだから」 言葉を失うとは正に、このことだった。しかし、驚きの後に兵助の中で生まれた感情は喜びではなかった。それは憤りだった。怒りだった。どうしてこうも乱す。どうしてまだこんな人間に関わる。お前を忘れたくて、でもそんなの無理で、苦しんで、それなのに…お前は優しすぎるんだ。けれど、それは優しさではないよ、竹谷… 「…おれはお前のこと、好きじゃない」 「…あぁ、それでもいいんだ…俺が好きなだけでもいい。兵助が俺のこと嫌いでも、もしそのせいで兵助が傷ついても…俺はこれを言わないままで、お前とこのままなんて嫌だから」 「…ふざけんな…」 「ごめん…でも、」 「ふざけんなよ竹谷…!」 その竹谷の言葉は、そっくりそのまま、あの時の兵助の想いだった。あらゆる堰を切った感情は、竹谷の胸倉を掴んだ。勢いのまま押し倒し、どんどんとその胸を殴りつけても止まらなかった。馬乗りになって触れた体から、温もりが伝わった。それを感じてしまったら、もう止まらない。我慢などとっくに出来ない涙が感情と一緒に溢れた。いくら強がってみても、こうして情けなく涙は溢れた 「迷惑でも俺は、」 「迷惑なのはお前の方だろ…!」 何の抵抗もせずにされるがままになっていた竹谷の、兵助の頭に伸ばしかけていたその手が止まった。 「何言って…」 「おれがお前のこと好きだと言ってもか!」 「…!?」 「そんな…そんな簡単なことじゃないんだよ!」 「……」 ほら、やはり何もわかっていない。けれどおれはわかってしまう。竹谷の言う好きは、自分の抱くそれとは違うことなんて明らかだ。あぁ…こんな惨めなことってあるだろうか。目の前の間抜けな顔を、自分の涙が濡らすのがわかった。その顔は本当に間抜けで、どうしようもなく似合わない。竹谷に似合わない表情ばかりさせてしまう自分は、やはり近くにいてはいけない存在なのだ。本当に、辛いばかりの恋だった。けれどそれももう、終わる。ようやく訪れた不思議なほどに穏やかな気持ちで言葉を続けた。 「なぁ…この意味がわかるか?」 「…兵助…だってお前、」 「…劣情だ。お前が後輩を想うそれとは違う」 「……」 「それでもお前はおれと一緒にいたいと言えるか」 その沈黙が意味するものを、兵助はゆっくりと受け止めた。そして握り締めていた温もりを手放した。きっともう触れることのないそれはすぐに掌から溢れ落ちて、消えた。 「…もうわかっただろ…出て行ってくれ」 「………」 全てをぶつけた兵助と、全てを理解した竹谷が、それ以上の言葉を交わすことはなかった。 それでも夜は、静かに明ける。 |