新しい朝日はまるで、夜の間のことなど何も知らないというようにこの身に注ぐ。寝不足でぼーっとしていた頭を一気に覚醒させたのは、そんな朝の光によく似た明るい声。 「おはよ、兵助」 ほら、いつも通り。竹谷はいつも通りだ。いつもの笑顔でこうやって、何も無かったことにしてくれる。だったらおれは甘えよう。甘えるしかないじゃないか。竹谷の残酷なまでのその優しさに。 「あはは!酷い寝癖」 「えっ?」 「早くしないと授業遅れるぞー」 「…あ、おう!」 おれは、うまく笑えているだろうか。 充実した毎日とは裏腹に虚しさが募る心。あれから極力竹谷を避け、無心に勉学に励んだ。委員会活動や試験などの忙しさも相まってニ、三日顔を合わせないこともザラだった。こうやっていくらか穏やかな気持ちでいても、しかし相変わらず身勝手な自分であった。 この想いからは逃げられないと悟り、せめておれの中で「いつも通り」を取り戻したくて竹谷の部屋を訪れたあの夜。おれはおれを…おれの気持ちを、見誤っていた。そして竹谷の優しさを甘受した。結局おれは、何も変わってなどはいないのだ。 「よう、兵助」 昼。手頃な木陰で午後の授業の予習をしていた所、頭上から声がかかった。そこを見上げる前に、木からすとんと降りて目の前に現れた影に、一瞬だが身構えた。 「…三郎か」 「珍しいな。今、一瞬とはいえ見間違えたろう」 「…何が言いたいんだよ」 「別にぃー」 竹谷の顔をいつもの雷蔵のそれに戻して、三郎は隣に座した。 「……何か情けないよ」 「どうして」 「…おれ、隠しきれてないんだなって。気を使わせてるし」 「…それはちょっと違う」 「え?」 「お前はいつも通りだ、他人が見たらな。俺や雷蔵だからさ」 「…あぁ、そうだな」 「それに悪いが、俺は気を使うほど優しくも暇でもない」 その言いぐさはとても三郎らしいと思った。近くで鳥が囀ずった。 「お前はよくやってるよ」 「…それは皮肉か?」 「どうかな…今のお前の選択も疑問だが、」 「……三郎、もうこの話は…」 「まぁ聞け。そんな兵助君にひとつ、良いことを教えてやろう」 顔を上げると三郎の目線がある場所で止まっていた。その、どんな感情を孕んでいるのか分からない横顔に、ぞっとした。 「…なぁ、竹谷はモテるって知ってたか?」 一瞬、呼吸を忘れた。 その視線を追った先、茂みの向こう側に見知った後ろ姿があった。見とめただけで鼓動が早まるその姿。そしてその向こう側、女の子がいた。姿からしてくの一教室の生徒であることだけは分かるが…なぜ、こんなところに…。なにやら二人で話をしているようだが、その会話までは聞こえない。そうして見ている内に女の子が去り、そこには竹谷だけが残った。それを見計らったかのように、隣で三郎が立ち上がった。 「よう、色男」 素早く竹谷が振り返る。 おれは動けなかった。 「三郎…!」 「春だねぇ」 「……聞いてたのかよ」 「気配は消してたし、エチケットは守っただろ?」 「そういう問題じゃねぇだろ…」 三郎はカマをかけたのかと、頭の片隅で理解した。しかしそんな事をしなくてもあの雰囲気で察しがつかないほど、おれは馬鹿じゃない。それにおれは知っているんだ。話をしている時、竹谷は頭を掻いていた。あれは竹谷が照れている時にする仕草。知っている。竹谷のことなら大抵は。だって、見てきたから。いつだって、すぐ近くで。だから、分かりたくなくても分かるんだよ…。 「まぁとにかく俺らも偶然ここにいたんだよ。言わば先客ってこと」 「はぁ?俺ら?」 「な、兵助」 そう振られて、覚悟を決めた。竹谷の驚いた顔が嫌でも目に入る。忘れることの出来ない…あの時の、あの瞬間の表情だった。ぎこちない体を動かして三郎の隣に歩み寄れば、強く肩を引き寄せられた。しかしそれでなんとか立っていられた。何か、言わないと。 「……ごめん」 「…いや…」 「謝ることないさ」 「…で、こんなとこで何してたんだよ」 竹谷の、めったに聞いたことのない不機嫌な声が突き刺さる。それは三郎に向けられた言葉だと分かっていながら、じくじくと、抉られた傷から血が滲むような感覚が体を襲った。やはり聞かれちゃまずい話だったのか。おれには何も、言ってくれないのか。そんな身勝手な想いが生まれた。 「それは二人だけの秘め事ですから」 「なに…?」 「なぁ、兵助」 何も考えられなかった。色んなことが大量に頭に入ってきて、そのどれひとつ掴まえられなかった。今、三郎は何て言ったんだっけ。 「…あ、あぁ…」 呆けたように辛うじて口にした。もうどうでもいい。何も分からない。考えられない。おれはもう泣かないと決めた。忍になる為にこの学園を立派に卒業するという本分を忘れるつもりはない。こんなことで、おれは負けない。おれは、もう振り回されたくない。この感情に。竹谷に。嫌なんだ。痛いのも、苦しいのも、もう…嫌だ。 「…そうか」 「では俺たちは失敬するよ。今度は邪魔が入らないところに行こう、兵助」 「…あぁ」 「………」 竹谷の顔を見れなかった。もう一度、自分に向けられる笑顔が見たかった。背を向ければもう、振り返れない。それでも、ちゃんと歩ける自分に安心した。一人でなくて良かったと、心からそう思った。 「馬鹿だな」 怒気のこもった三郎の言葉が一体誰に向けられたものかなんて、分からなかった。ただ、おれの中で本当にもう何もかもが終わる気がした。 あの日泣き虫だった子は、彼に涙を止めてもらった。 あの日彼の涙を止めた子は、泣き虫になった。 あの日にはもう、誰も戻れない。 |