「数馬様」


それは静かな雨の夜。一人には広すぎる部屋でスタンドランプのぽうっとした灯りを頼りに、これまた大きすぎるベッドに入って本を読んでいた時だった。突然名を呼ばれ、心臓と体が跳ねた拍子に手元で開いていた本が勢いよく閉じた。しかし大きな窓から侵入してきた人物がランプの明かりで作兵衛だと分かると、数馬はほっと胸を撫で下ろした。


「うー…びっくりしたー」


その反応にくすりと笑うと、作兵衛は今しがた自分が入ってきた窓を閉めてからベッドに歩み寄った。ここは外から侵入するには高すぎる位置にある一室なのに、こうして作兵衛が窓から侵入するのは初めてではない。今更だが、毎回どうやって来ているのかと数馬は不思議だった。その作兵衛は今は普段の騎士服を少しばかり楽に着崩しており、尚且つ雨に濡れていた。服や髪からぽたぽたと滴が落ち、床を濡らした。


「今晩は。貴方に会いに参りました」


右手を胸にそう気取りながら恭しく頭を下げる作兵衛に、ベッドから抜け出した数馬は笑って、頭一つ分程高い位置にある端正な顔を見上げた。しかしそれはすぐに固まる。雨に濡れて下りた髪のせいか、いつもとは違う雰囲気のその姿に胸が更に高鳴った。慌ててそれを誤魔化すように笑った。


「どうしたの、濡れてるじゃない」
「ちょっと剣の訓練を」
「こんな時間まで?」
「時間なんか関係ないですよ」
「…馬鹿、風邪ひいちゃう」


すぐ近くの椅子に掛けてあったタオルをとり、その顔や頭を拭きながら思った。作兵衛は時々、こうして子供みたいだと。その姿とのそうした落差に心を掴まれるのはやはり、惚れた弱味だろうか。手を動かしている間、少しも動かずにじっとこちらを見下ろす視線にも変な緊張をしてしまって内心穏やかではなかった。こうして作兵衛が部屋に訪ねてくる夜は、つまり恋仲である二人にとっては、そういう事で。最近はお互い忙しくしていた為に、気持ちも体も昂るのは自然だった。


「…疲れてるでしょう?」
「そうですね」
「……今日はもう、帰っちゃうの?」
「どうして欲しいのです?」


突然顔が近づいたと思ったら、耳元に直接そう囁かれた。どくんと胸が震え、持っていたタオルが足元に落ちた。それだけでみるみる火照る身体に羞恥する。何てみっともない。


「う、え…」


けれど、思わず変な声を出してしまうのも不可抗力だと思った。作兵衛は数馬の耳朶に鼻先を付け、それをそのまま横に滑らせたのだ。頬を撫でるようにそれは動き、しかし唇は肌を掠めるだけ。ゆっくりとそこにたどり着いて、数馬はぎゅっと目を閉じた。けれど期待してしまった感触は訪れなかった。ただ、


「…っ」


これは。
鼻キス、と言うのだろうか。数秒が数分にも感じた。しかしそれ以上は何もなく、顔がふっと離れた。力が抜けたようにベッドに腰をおろした数馬の前に、作兵衛もまた床に片膝をつき、彼がいつもするように頭を下げた。


「私は貴方の命にのみ従順なる家臣です」
「…作」
「命令を」
「……ずるい」
「数馬様」


優しく促すような言葉に、数馬はもう我慢出来なくなった。悔しいけれど、彼には敵わないことくらい、わかってる。覚悟を決め、夜着をぎゅっと握りしめた。


「……作、ここにいて。僕を……抱いて、欲しい…」


自分の口から出た核心の言葉に、今なら恥ずかしさで死ねるのではないかと思った。それは情けなく消え入りそうな声だったが、それでも言葉は彼に伝わったらしく再びその頭を下げた。


「イエス、マイロード」















作兵衛は目の前にある白い足をとり、そっとキスを落とした。びくっと示すその反応が愛しくて、そのまま頬擦りをした。それから膝の上でぎゅっと力が入ったままだった小さな手をとり、その甲にも唇を寄せる。人前でする忠誠を誓うそれとはまた少し違うキスだ。そっとその細い体を抱き締め、頬を寄せた。動物がじゃれあうように頬を擦り合い、見つめ合い、くすぐったくなって笑い合った。それからゆっくりと数馬の体をベッドに押し倒す。熱を持った体と視線が絡み合って、互いを更に昂らせた。


「可愛い」
「…いじわる」
「お前を見てるとつい、いじめたくなる」
「ひっどいなぁ」
「拗ねんなよ」
「拗ねてないもん」
「ごめんごめん。優しくするから許してよ、な?」
「あー…もう…」


それを言われると何も言えないではないかと、数馬は焦れた。確実に真っ赤であろう顔を思わず腕で覆えば、失礼にも吹き出した作兵衛にガシガシと頭を撫でられた。ほら、そうやっていつだって優しくて甘いじゃないか。まるで宝物のように扱ってくれる。恥ずかしくて溶けてしまいそうな程の愛をくれる。
それから作兵衛は膝をついて体に跨がったまま濡れた服を脱ぎ始めた。音でそれを感じ取ってしまい、ますます腕を外せなくなってその羞恥に耐える。軋むベッドの音や空気が生々しくて、変になりそうだ。しかしすぐに上半身裸になった作兵衛によって簡単に腕を外された。優しく微笑んでから、おでこにキスを落とされる。そのひとつひとつの動作が愛しくて優しくて、堪らなくなる。大袈裟ではなく、体が幸せに震えた。恥ずかしくて消え入りそうだった。


「慣れないよな、数馬は」
「も…あんまり言わないで」
「可愛い」


何度も角度を変えて確かめ合った唇が、音をたてて離れる。蕩けた瞳でそれを乞えば、どちらからともなく熱の与え合いが始まった。雨の音さえ忘れる程、互いを求め合った。















鍛えられた体はため息が出るほど綺麗で、自分にはないものだと数馬は密かに憧れている。それでもやはり、その体にも傷は無数にあった。今は目を閉じた作兵衛の腕に抱かれながら、目の前の胸板に手を這わせた。一つ一つの傷や痣を確かめて、たどり着いた右肩の新しい傷に手が止まった。それはつい最近、いつもの不運のせいか、落馬しかけた自分を庇って出来たものだった。その縦に伸びる紫色を撫でてから、そっと唇を寄せた。こんなことをしたって癒えるわけでも消えるわけでもないのだけれど、どうしてもそうしたくて何度も舌を這わせたり口付けたりを繰り返した。


「…数、馬」
「ん…」
「……まさかお前、まだ気にしてんのか?」


当然に目を覚ました作兵衛に頭を撫でられ、優しい声色で問われると途端に胸が苦しくなって歪めた顔を胸に押し当てて隠した。気にしてないと言えば嘘になる。けれど、少し違うとも思う。こんなにも愛されている、これは愛の証なのだと、不謹慎にもそう思い込んでしまう自分がいる。けれどそれが時折、物凄く怖い時がある。今回は傷で済んだけれど、いつもそうだとは限らないのだ。命の保証など、どこにもない。


「これはお前のせいじゃねーよ」
「…うん」
「数馬…」
「駄目っ」


咄嗟にその唇を奪った。こんな自分にこれ以上の優しい言葉は要らないから。もう充分すぎるから。だからもう何も言わないで欲しかった。そうやって言葉を止めることには成功したけれど、困ったような表情の作兵衛にはきっとお見通しなのだろう。


「お願い…何も言わないで」
「…馬鹿な数馬」


作兵衛は思う。お前が気に病むことなんか一つもないと。建前は仕事ということになるが、俺にとってそれはそんな安っぽい正義感じゃない。お前に向かう全ての害を払いたいと、守りたいと、それはもうほとんど本能のようなこの愛のせいなのだから。


「馬鹿な作ちゃん」


僕の為にいつもその身を挺して、自分のことなんか二の次で。僕が君にしてあげられることなんてなにもないのに。自分の為に傷付く姿を、もう二度と見たくない。怖くて堪らない。それを馬鹿な悩みだと、君はきっと笑うんだろうけどね。


「…作ちゃん」
「なに」
「ねぇ…僕のこと…すき?」
「数馬は?」
「なんで…僕が聞いたのに…」
「言って」
「……すき、だよ」
「俺も…めちゃくちゃにしたい位に好きだよ」
「…僕もっ…だいすき」
「…数馬はずるいね」
「作ちゃんがそれ言う?」
「だって、俺の中全部お前だよ」


あぁ、この幸福感のせいで自分が自分で無くなりそうだ。いつも、彼といれば何だって出来そうな気がする。強さも弱さもその全てを預けられる。素直さも、隠したい想いも全て。こんな想いは初めて知ったから、そしてきっと最初で最後の相手だから。


「作ちゃん、ずっと僕の側にいてね?」
「…馬鹿だな。命令すればいいのに」


その言葉に、じゃあ死ぬまで一緒にいなさい!とふざけてみたら、真剣な顔でイエスマイロードと返され、手の甲にキスまでされてしまった。ほらまた、容赦のない愛だ。


「死んだ後だって、生まれ変わったって、約束は守る」
「…僕も、守るよ」


だってそれは二人じゃなきゃ叶えられない望みだから。でもそうやっていくら言葉にしたって、きっとこの想いの半分も伝えきれないと思うんだよ。泉のように湧く愛しさが、この身を包んでいくのが分かるんだよ。
幸せに触れたその眠たくなるような温かさの中で、二人は目を閉じた。大地を潤した夜の雨は、いつの間にか止んでいた。





(騎士と主)

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