人類がその歴史上遭遇したことのない未知のウイルスは、圧倒的な感染力とスピードで世界中を支配した。多くの命ががなす術なく散っていった。どの国でも真っ先に保護されるのはお偉方や医者や伊作のような学者で、守りきれない一般民衆は実質、見捨てられたようなものだった。多分に漏れず俺も笑っちまうくらい簡単に感染した。血は吐くわ呼吸は苦しいわで、まさに生き地獄。初めのうちは沢山の管が体に付いていたけど、それもすぐに外された。無意味だったからだ。
そして今。こんな汚い姿でベッドに横になる俺を、愛しい綺麗なままの顔が見下ろしている。それがとても、嬉しかった。余計な人間が俺らを見張っているのは、空気読めよって思うけど。この国、ひいては世界を救うための人材として期待のかけられた伊作が、馬鹿な気を起こさない為の監視であることは言われずとも理解できた。俺が伊作を道連れにするような可能性も、きっとこいつらの頭にはあるのだろう。畜生、馬鹿にしやがって。それでも、有り難かった。死ぬ時に一人じゃないってのは、こんなにも幸せなことなのかと思った。


「ちょっと死んでくるよ」


なるべく普通を演じてみせる。強がりは得意だったはずなのに。言葉通り、こんなにも苦しかった。言葉を紡ぐのもやっとだ。どうしようもなく情けない。お前の前じゃ、いつも格好つけていたかったのに。だけどもう、それも無理みたいだ。


「馬鹿…言わないで」


防疫服の向こうで、伊作は苦しそうに顔を歪めた。俺より苦しそうに、お前は。いつも当人よりその痛みを感じていたよな。いつだって自分のことは後回しで。感じなくていい痛みにさえ、敏感だったね。まるで苦しみや痛みからお前が魅入られているようで、俺はいつも、今だって気掛かりだよ。馬鹿なのはどっちだよ。本当、馬鹿だよお前は。これからまだ、俺みたいな人を救う仕事が残ってるんだろ?こんなことでいちいち泣いてなんかいられないんだぞ?


「伊作、」
「留は僕が助けるんだから…!」


ごめんな、根性なしで。それさえ待ってられなくて。どうせならお前の薬で死にたかったな。ああ、もし神様がいるのなら俺はあなたを恨みます。どうして伊作なんですか。どうして優しいこいつにこんな過酷な運命を背負わせるんだ。だけどそれをこいつは、きっと自ら望むんだろうな。だから神様、そんな使命を与えられた伊作を、その時はどうか一人にしないで下さい。その時はどうか優しく迎えてやって下さい。それくらいは、いいでしょう。なぁ、伊作。辛くなったら無理しないでいいから。だからその時は、


「い、いさ、く…わら、笑え」


体が震えてなかなか言葉が言葉にならない。それで本当にいよいよだと感じた。とても不思議な気分だった。本当はこの世界でやり残したことなんて山程あるはずなのに、何も思いつかない。


「そんなっ…無理だよ」


ただ…本当は、直接君に触れたい。本当は、力一杯抱き締めたい。本当は、優しく口付けたい。本当は、そっとその涙を拭ってやりたい。


「…っごめん、な…ぁ…」


俺はずるいな。さっさと先に死ぬなんてさ。お前の最期に側にいてあげられなくて、ごめんな。俺だったらこんな勝手、許さない。だからさ、お前も許さなくていいよ。


「留三郎…?」

動け。腕になけなしの力を集めて、伊作の顔に伸ばす。すぐにそれを伊作が両手で掴んで頬擦りをした。正確には防疫服の上から、だったけど。


「あっ、あったか…かいなぁ」


あぁ、どうか泣かないで。知ってるだろ?こういうの、俺は苦手なんだよ。だから今、お前にしてあげられることが、こんな俺にも残っているのなら。いつも照れて言えなかった言葉を、精一杯伝えるよ。もし辛くなるのなら、忘れていいから。


「あ、あ愛して、る」


でもやっぱり…出来れば忘れて欲しくないなぁ…なんて、我が儘かな。その我が儘ついでに俺の心をここに、君のそこに、置いていかせてくれないか。あと一言だけ。最後に、


「ありがとう、伊作」


そこで視覚は途切れたけれど、ちゃんと聞こえたよ。ああ、ありがとう伊作。ひどい泣き声だったけど、ちゃんと届いたよ。愛してるって、言ってくれたんだね。名前もたくさん、呼んでくれたね。
ねぇ、伊作。
君に出会えたこの世界は美しかったよ。
君と生きたこの世界は、優しかったよ。
幸せだった。
そう思わせてくれて、ありがとう。
愛してる。
そう思わせてくれて、ありがとう。
伊作、俺の愛した人。
本当にありがとう。








(感染者と生物学者)

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