何がどうなってこんな話になったのか、きっかけは既に思い出せない。けれどアルコールのせいで口が滑らかになっている、その自覚はあった。そして何か大きな一歩を踏み込んでしまうのではないかという不安や好奇心に似た高揚も感じながら、後藤は上滑りする言葉を続けた。 「今は彼女いらないっていうのは、たぶん言い訳だ」 「…言い訳ねぇ」 「本当は、仕事以上に本気になれないだけなんだよな。最低な男だと思う」 「んな卑下することないと思うけど」 「いや、俺が女だったらこんな男絶対嫌だな」 「うはは、そんな風に考えんだ」 「…お前は?」 「うーん。まぁ、出来ないんじゃない?」 それは何故、と口にしようとしたタイミングで達海が近くを通りかかった店員をつかまえたので、何となく聞きそびれてしまった。ウィスキーのロックを注文した達海は、それから目の前にあったまだあまり手をつけられていないだし巻き卵の存在に今更のように気付いて、箸を伸ばしている。後藤は先程から手に掴んだままのジョッキに中途半端に残ったぬるいビールを、一気に胃へと流し込んだ。一口目とは別物のように、それは不味かった。 それから半時も経たないうちに二軒目に移動しようということになり、全員揃って店を出た。軽い浮遊感を味わいながら生温いような夜気を肺に送り込む。見上げた空に、嘘みたいに大きな月が出ていた。 「悪い。おれ帰るわ」 「じゃあ俺も。すまん、またな」 達海がそう言い出すのではないかと思っていたので、後藤が続けた言葉も用意していたように、わざとらしく聞こえた。しかしそれで、非難の対象はすぐさま後藤に変わった。すっかり出来上がった連中のブーイングをいなしながら、ちらっと達海に目配せをする。達海は少し驚いたというような表情を、けれどすぐに寂しそうな、何かを諦めたような、無気力な笑みに変えた。 仲間と別れ、言葉を交わす訳でもなく並んで歩く。隣をふらふらと歩く達海は、けれどこれで酔っているのかどうか後藤にもよく解らなかった。彼は普段からこうした歩き方をするからだ。しかし危なっかしいことに変わりはない。自由気ままに揺れるその腕を掴もうか、と思案していた時だった。 「おへー」 突如、達海が間抜けな声を上げた。何事かと反射的にその視線の先を追ってしまい、後藤は思わず立ち止まった。アベックが路地裏の暗がりでキスをしていたのだ。夜の学生街ではこんな光景も珍しくはない。けれど今は自分自身いい感じに酔っていて、あまつさえ達海と二人きりで…そう意識すると妙に心拍数が上がった。しかし達海はただ、ふっと鼻で笑っただけで今度は夜空を見上げながら、またふらふらと心許ない足取りで歩き出した。 「ごとー、寒い」 「そう、だな」 「こんなんじゃ酔いも醒めるよなぁ」 酔っていたのか。いや、もう醒めたのか。そうやって機能が低下した頭で言葉を選ぶうちに、またしても返事をするタイミングを逸してしまった。思えばそれが二人になって初めての会話だった。やはり少し飲み過ぎたと後悔する。結局ろくな会話もないままに、気付けば後藤のアパートに辿り着いていた。 「あー疲れた。ごとー、泊めてよ」 「え…あ、あぁ」 あまりに唐突な提案に、返答に詰まりながらも頷いていた。達海と言えば返事を待たずに既に階段を上り始めている。その細い腰に手を回せない代わりに、そのすぐ後ろに付いた。こんなにも心音が高鳴るのはきっと目の前の危なっかっしい足取りのせいだと、自身に言い聞かせながら。 冷蔵庫にあった缶ビールを持ち出し、自分自身でも解らない何かを紛らすようにして煽った後藤を、達海は怪訝な顔で一瞥してから再びテレビに視線を戻した。 「さっきの、」 「んー?」 「恋人出来ないって、何で?」 酒の力を借りて、後藤はようやくそれだけ聞いた。それに対し、あぁ…と店での会話を思い出したように、それをさも当前のように、チャンネルを変えながら達海は気の抜けた声で言った。 「俺が好きになるのって、男だから」 は、と間抜けな声が出た。 思考が置いてけぼりになる。 テレビの音がやけに大きく響く。 それでも徐々に、理解していく。 ついに一歩を踏み込んでしまったのだ、と。 それでも、本当は、 「何も取って食いやしないから安心してよ」 それでも本当は、全くそんな予想をしなかった訳ではなかった。 そんなことに、今更気付く。 テレビ画面を見たまま、目を細めて笑う達海の横顔から、目が離せなかった。 「その、ずっとか?」 「まあね、知ってる奴は知ってるし」 「…そうか」 「気持ち悪いとか思った?」 「それはない。ただちょっと驚いたと言うか…」 「相変わらず優等生だな、後藤は」 不意に首を傾けた達海と目が合う。 言っている意味が、解らなかった。 ただ、酒の席での会話から、否、もっとずっと前から、達海はこんな風にどこか諦念したような顔で笑っていた。 それがずっと、気になっていた。 「意味が…」 「わからない?」 「…いや」 「じゃあ、やっぱ無理?」 「違う…俺は、」 「でも、だったら、」 試してみる?と、その意味を理解しないうちに、首を傾げた達海の顔が近付いてきた。後藤は焦りながらも、その肩を掴んで止めた。少々手荒になってしまったのは、もどかしい怒りの所為だった。 心音が伝わってしまいそうな程、近い。熱い。苦しい。 「…どうしてお前はそうなんだ」 「何のこと」 「どうして自分をどうでもいいみたいに扱うんだよ」 たしなめるつもりなどない。ただ、気になっていた。 一瞬、不機嫌に顔を歪ませた達海は、そんなの…と語尾を引き摺った。 「傷付かないで済むからじゃん」 「…それでも、やめろよ」 「どうして」 答えに窮する数秒の沈黙に絶望したように、けれどそれも予想していたかのように、達海はぎこちなくあの笑みを浮かべて、やっぱ帰るわ、と突き放すように立ち上がった。 瞬間、後藤はその腕を掴んでいた。 何をしようとか、言おうとか、考えていた訳ではない。ただ、体が勝手に動いていた。みっともなくも、惜しいと思った。 「俺、お前が…好きなんだと、思う」 「…何それ」 「告白したつもり、なんだが」 言葉にしてしまってから、それはしっくりと後藤の胸に馴染んだ。それと解った事が、単純に嬉しかった。何度でも言葉にして伝えたい位には、すごく。 振り返らず、振り払いもせず、笑いもせずに、達海は動かない。 「お前の、危なっかしい歩き方が心配だ」 「は?」 「お前の、何かを諦めたような笑顔が心配だ」 「なに…」 「お前がもし、一人で泣いたりするなら…放っておけない」 「…泣かないよ」 「ずっと、お前に触れたかった」 繋がっている達海の腕が、ぴくりと反応した。声の様子からも、珍しく動揺しているのだと解る。否、これは動揺ではなく、 「恥ずかしくないの」 「お前の方が、照れてるじゃないか」 「…うるさい」 「達海、」 「まさか、気付いてたとか…」 「何を?」 「…あぁもう、ホントにお前って」 言いながらようやく振り返ったと思ったら、そのまま胸に温もりが飛び込んできた。勢い余って後ろに倒れ込む。達海の顔は胸に押し付けられていて見えなかったけれど、後藤はその、ずっと触れたかった不安定な身体を抱き締めた。それでも足りないと思ってしまう程、心は希求する。 「…馬鹿だ」 「自覚はある」 ずっと、見てきた。見ないようにしてきた部分もあった。けれど、きっと、ずっと、こうしたかった。 くしゃくしゃの頭にキスをしながら、後藤はそう思った。 |