ようやく雨風が弱まり、電車の運転が再開したのはそれから二時間程経った午後八時を過ぎだった。それから降車駅に到着したのは十時前。そのままタクシーに乗り込むと、教わった総合病院まで急いだ。
こんな時間では今日中に面会するのは無理なのではないかと不安だったが、身内の人に連絡がつかなかったので助かった、という理由であっさり許可された。そうして教わった病室へ向かう途中、静かな廊下に心臓の音が聞こえるのではないかと言う程、元親は緊張していた。あれから返事くらいしか言葉を発しなかった元就の足どりも、重たげだった。
けれどもう、大丈夫かとは聞かなかった。今日このまま行かないと駄目な気がする、と言った元就の気持ちが大切だったし、それを少しでも揺らがせたくはなかった。
辿り着いた病室は単に他に部屋が空いていなかったからか、それともその容態のせいなのか、個室のようだった。すりガラスの向こうから明かりが漏れているそのドアの前で立ち止まった元就が、何かを確かめるようにこちらを見上げた。動き出した電車内で、見守っていてくれ、と言った元就にしたのと同じように頷いてみせると、少しだけその表情が緩んだような気がした。それから小さく深呼吸した元就がドアに手をかけ、静かに横滑りさせた。








背後でドア閉まる音がして、元就は視線を上げた。同時に、どくんと心臓が大きく跳ね上がった。
父が、質素で清潔そうなベッドの上に横になっていた。眠っているのか、その目は閉じられている。室内はベッドの頭の部分にある照明だけが唯一点いているだけだった。その頭には包帯、左腕に点滴、そして右腕にはギプスがはめられていた。今の今まで信じられなかった大きな怪我を負ったという父の姿が、そこにあった。


「…父さん」


思わず口から出た声は小さく震えていた。それでも、父の目蓋はゆっくりと開かれた。視線だけが動き、こちらの姿を捉らえると、その目が大きく見開かれた。


「…元就…」


うわ言のような声で呼ばれた、懐かしい響き。あれ以来耳にしたことのなかった、自分の名前を呼ぶ父の声。
ぐっと込み上げる感情に揺さぶられ、そこに立っているのがやっとだった。それでも精一杯膝に力を込め、震え出しそうになる身体を支える。そして視線を逸らせないまま、導かれるようにベッドまでの数歩を踏みしめた。
先の願い通り、元親はドアの前に留まったままだった。それはここへ来る前、自分から元親に頼んでいたことだった。ここからはどうしたって、自分と父で話をするべきなのだから、と。
ベッドの脇に立って見た父の姿は、随分と小さく見えた。その顔も、数日前とは全くの別人のようだった。いつものような激しさがない代わりに、どこか落ち着いたような雰囲気さえあった。
しかし、いざとなると言葉が出てこなかった。
その間にゆっくりと上半身を起こした父は、一瞬サイドテーブルに視線を投げ、小さく息をついた。


「…古い手紙を見つけた。昔、海で溺れたお前を助けてくれた子がいたんだ」


突然の思いがけない言葉にはっとする。
それから父の視線は元親の方に向けられた。


「あの時の子だったんだな…」
「……、はい」


驚いたように返事をした声を背中で聞き、つられて思わず後ろを振り向こうとした途中で、サイドテーブルにあるものに視線を奪われた。そこにあったのは、手紙の束だった。
元親から聞いていた話では、伊達は父の持ち物を見て本人だと気付いたらしいが、それはもしかしたら自分の名前が書かれたこの手紙だったのかも知れない。まさか父がそのことに気付いていたなど想像もしなかったけれど。


「元就…お前だけは、と思っていた」


一瞬何を言われたのか、理解出来なかった。近い距離で父に見上げられている状況に、頭も心もついていかない。


「私はお前を殺したい程に憎んでいたのか?それとも縛り付けたい程に…」


声が、震えていた。
そしてその父の目から、涙が流れ落ちた。
呼吸が苦しい。
胸が、痛い。
強い、目眩がした。


「私は確かにお前を、愛していた」


視界を歪ませる涙が次々に溢れ、ついに膝からその場に崩れ落ちた。
嗚咽と震えが止まらない。
思わず掴んだシーツは頼りなく、何もかもが遠く感じる。
ずっと父を信じていたはずだった。けれど、きっといつからか、信じることが出来なくなっていた。
それに今、気付いてしまった。


「ごめ…なさい…ごめん、なさい…ゆるしてください。全部ぼくが悪い、です」


これが何に対する謝罪なのか、自分でももうわからなかった。ただ、それしか言葉が出て来なかった。


「もういい…いいんだ、元就。お前は何も、何一つ悪くない。彼の言う通りだ。そんなことは、初めからわかっていた」
「ごめんなさい…ごめん、なさい…」
「…わかった」
「父さん…」
「お前を、赦すから」


身体の震えも、呼吸も、止まった。
ずっと、待ち望んでいたはずの言葉だった。
それなのに、どうしてこうも戸惑い、焦るのか、わからない。
縋るように見た父の瞳の中に、映る自分の姿を見つけた。


「私は赦されない。この腕で…そんな資格も権利もない」
「父…さ、」
「もう分かったんだろ!?だったら、そんなもんは…!」


背後で元親の声が響いた。
けれどそれをどこか遠くの出来事のように聞いた。
目の前で、父が首を横に振っていた。


「恐ろしいんだ、自分が」


包帯の巻かれた両手を見つめ、そしてそっと閉じた。
夢を見た、と呟いた父の顔は穏やかだった。
涙が溢れている以外は、とても。


「四人で暮らしていた時、色んな場所へ行ったな。沢山笑って、楽しかった…幸せだった」


そう言って再び開かれた目に、真っ直ぐ見つめられる。
そして、続けた。


「お前が生まれてきた時、間違いなく私は世界で一番幸せだった。そう思ったことを、思い出したよ」


言葉が頭を、胸を、身体中を駆け巡った。
そして今までの痛く辛い記憶は、一瞬にして消えた。
あの頃の、兄がいて、母がいた頃の父が、そこにはいた。


「…ごめんな、元就」


違う、そんな言葉は必要ないのだと首を振ってみても、ベッド上の父は頬を濡らす涙を拭うことなく、ただこちらを見つめているだけだった。
どれくらいそうしていたのか、わからない。
少し寝かせてくれ、と言ってゆっくりと体を横たえさせた父を、動けない体で見ていた。
背後から足音がしたことにも気がつかなかった。
体を支えられ、立ち上がると、父は既に目を閉じていた。


「…また来ます」


近くで元親の声がした。
身体中に膜を張ったみたいだった。そのまま体を支えられながら何とか歩き、病室を出た。そしてドアが閉まる瞬間、最後に、もう一度ベッド振り返った。
そして、目が合った。
それは間違いなく、あの頃の優しい父の眼差しだった。










夜を静かに包み込んだ慈雨は止むことなく、降り続く
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