朝日を背にこれから学校にラジオ体操に行くという親貞と別れた元就は、誰にも出くわすことなく家に帰り着くと玄関でほっと息をついた。
今更ながら大胆な行動をしていたのだなと気付く。ここへ来てやはり少しだけ変わったのだろうか。けれど涙は枯れていなかった。あの時、泣いたことは誰にも言わないからと親貞は笑った。自分にはない、元親に通じる強さを幼い彼に見た気がした。いつか自分も誰かを慰め守り、優しさを持ち、それを伝えることが出来るような人間になれるだろうか。
答えの出ない考えを止めて部屋に戻ると、元親はまだぐっすりと眠っていた。起こさないよう慎重にベッドに戻ろうとするとどうしてもその寝顔が目に入ってしまい、思わず立ち止まってしまった。それで気が緩んだのか、膝から力が抜けるようにしてその場に座り込んだ。
元親の寝顔を見るのはもうこれで何度目だろうか。今でもまだその違和感のようなものに慣れることはなかった。
元親を初めて見た時は、決して関わることのない男だと思っていた。そして初めて話をした時、警戒心と拒絶感しかなかった。それが今、こうして無防備な寝顔を眺めているなんて。
無意識に頬が緩んだ。と、気配を察したのか、元親の目蓋が薄く開いていった。


「もと、なり…?」


ゆっくりと上がった大きな手が、そっと頬に触れた。そこから無視できない熱が伝わってくる。恐らく今の元親には、これが夢か現実かという区別がついていないのだろう。そうだと分かっていても、触れられた手の熱といつもとは違う掠れた低音の声に、蝉のように胸はうるさく鳴った。


「…泣いたのか…?」


いつものように、そのほとんど異常なまでの敏感さには狼狽せずにはいられなかった。そんなこちらの心情などお構いなしに、親指の腹が目の下をなぞっていく。薄く開いたり閉じたりを繰り返す瞳に見詰められる。現実でも、そして夢の中でも、ひたすらにこの身を案じてくれている。込み上げるのは嬉しさではなく、ただ、胸がぎゅっと締め付けられるような切なさだった。


「だいじょうぶ…俺がいるから…あんしん…し、ろ…」


そう言うと、ふっと気を失うようにして、元親はそのまま眠ってしまった。
しばらく放心したように固まったままだった体をベッドに横たえてから、元就はまたほんの少しだけ泣いた。








早めの昼食の後、元親の母親と弟は買い物に出掛けて行った。
あれから親貞は目が合う度に笑いかけてくれるようになっていた。元親はそれを不思議そうに見ていたけれど、彼自身、今朝のことはやはり覚えていないようだった。
暑さに弱っていることを気遣かってだろう、日中は家の中で過ごそうと提案した元親と共に冷房が効いたリビングで明日の祭で何を食べるか、などという他愛のない話をしていた時だった。


「あ、忘れてた!」


突然元親はそう言うと、弾かれたように部屋を出て階段を駆け上がって行った。一体なんなのだろうと不安になりながら待っていると、すぐにバタバタと音をたてながら元親が戻って来た。
そして笑顔で目の前に差し出されたのは、一冊の本だった。


「…これ」
「なかなか見つからなくて遅くなっちまったけど」


受け取ったそれは、雨に濡れて読めなくなっても捨てられなかった兄の形見の本と同じ、けれど新しいそれだった。確か今は絶版だったはずで、もう二度と読めないと思っていたそれ。
しかし驚きに言葉を失った理由はそのせいだけではなかった。以前はあんなに大切に肌身離さず持っていたのに、今の今までその存在をすっかり忘れていたことに気付いたからだ。
もしかして違った?と不安そうに元親に、首を振ってそれを否定する。


「…いつの間にか、これがなくても平気になっていた」
「そっか」


ぱらぱらとページを捲ってみる。
兄が好きだったこの本のストーリーに、いつからか憧れるようになっていた。そしていつかこの主人公のように、海へ行ってみたいと思っていた。それは今、思ってもみなかった形で叶ったけれど、一人ではなかった。隣には、元親がいる。
今まで、もういない兄に執着し、自分の罪にさえ縋っていたのかも知れない。赦されたいと思う一方で、罪という鎖を断ち切られることに怯えていたのかも知れない。そうしていつまでも兄の死を受け入れず、拒絶し続けていたのかも知れない。


「ありがとう」


自然と口をついて出た言葉は、とても心地良く内心に響いた。
目を閉じると兄の姿が一瞬浮かんで、そしてすぐに消えた。
懐かしいその顔は、笑っていたようだった。


「変な話だが…ここへ来てから、昔の父の姿しか浮かばないんだ。生きている母と兄にはもう、二度と会えないけれど…」


そうやって、自分自身に確認するように呟いた。


「…大好きだった」


そして大切な思い出に蓋をするようにそっと本を閉じた。
それでも、そこに鍵はかけないでおきたいと思う。
いつでも取り出したり仕舞ったり出来るように、いつかきっとなるから。
不意に抱き締められた腕の中で、元就は少しだけあの頃に戻っていた。










ごめんなさい。
そしてありがとう、兄さん。

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