バスで駅まで行き、電車に乗って市外へ出た。途中軽く昼食をとってからローカル線に乗り替えると、そこからは長らく電車に揺られる時間が続いた。健康的な緑や空の青が鮮やかで、流れていく風景はまるで車窓という額縁に収まった絵画のようだった。
故障中なのかもしくは元からなのか、空調が整っていないせいで年季の入った窓は全開で、そこから都会の人いきれのような熱風とは違う夏の渇いた風が入り込んで来る。アパートに置いたままになっていた洋服の上に元親の長袖シャツを羽織っていた元就だったが、我慢出来ないような暑さは感じなかった。そのせいか、内陸を走る電車から海はその姿を隠したままだったけれど、確実にそれに近付いていると感じられた。
電車が進むにつれ、背の高い建物が減っていくのに比例して乗客もまた減っていき、終点の駅で降りる頃には車内に二人きりになっていた。海と花火を見に行こうと言った元親に引っ張られるようにして家を出たのが昼前。あれから四時間。左脇腹の痛みを庇いながら元親の後に続いて駅のホームに降り立った元就を、夏の日差しが容赦なく照らした。この時間でも太陽と蝉の勢いはまだまだ衰えず、線路は陽炎でゆらゆらと揺れていた。
この地がどういう場所か元親ははっきりとは言わなかったけれど、元就には察しがついていた。何もない田舎町と言いながらも、ここが大切な場所であることはその話ぶりからよく分かって少しばかり羨ましくも思った。そういう場所を、今の自分は持っているだろうかと内心に問うた元就は、けれどまだ失ってはいないと答える自分自身に驚いていた。そうさせたのは間違いなく隣に居てくれる存在のせいだ。
本数の少ないバスを待つ木造の駅舎の待合室で、元親はそこに一つしかない扇風機から送風を受け、扇風機って偉大だな…などと心底感心したように呟いている。その横顔を盗み見ているうちに、一筋の汗が喉仏の上を流れていった。


「にしても暑い!」
「…10回目」
「へ?」
「暑いって言った回数」
「…数えてたのか?」
「途中から」


体を揺らしながら笑った元親を、元就は複雑な思いで眺めた。
自分とは正反対の、光に愛された存在。元親はそういう人間で、本当はこんな事情に巻き込むべきではなかったと思うと同時に、それを本人に言ったらきっと怒られるのだろうなということも簡単に想像が出来て、そんな自分が可笑しくなった。これが自分勝手な夢じゃないことが、夢のようだった。
今もどこか他人事のように感じているこの首に残る痣も、小さな旅の道中に注目を集めるのは必然だった。真夏に長袖を着て首に包帯を巻いているなんて普通ではない。けれど銀髪に白い眼帯をした元親も同じだけ、それ以上に多くの視線に晒されていた。本人は気付いていないのか慣れているのか気にした様子はなかったけれど、元就はそんな元親のことを知ったつもりでいても本当の意味で理解していなかったかも知れないと思った。いつも自分のことばかりで精一杯で、こんなに側に居てくれた元親の事はきっと何も分かっていなかった、と。
例えば、昨日心配してマンションの下まで来ていたことも。嘘をすぐに見抜いたことも。父親に怒鳴ったことも。泣きそうに真剣な瞳に見詰められたことも。それから、キスをしたことも。


「あの…あんまり見つめられっと汗が止まんなくなんだけど…」


視線を逸らしたまま照れたように呟かれた元親の言葉に、元就はカッと全身が沸騰する思いで顔を背けた。いつから気付いて意識していたのだろうか。ぐるぐる動き回るくせに一向に答えを見つけ出せない自分に呆れ、結局一言も言い返せないまま扇風機から送られるささやかな凉に救いを求めた。


「けどさ、元就は俺が見てても気付かねー事がよくあんだよな」
「…嘘、だ」
「マジだって。だから結構盗み見たりして…あ、でもこれ内緒な?」
「ばっ……かじゃないのか」


えへへーという間抜けな笑い声を聞きながら、今は変に高鳴る鼓動を抑えることに必死な自分をごまかすようにペットボトルの水を一気に煽った。
それから数十分待って、ようやく到着したバスに乗り込んだ途端、冷えた空気の心地良さに思わず二人の溜め息が漏れた。他に乗客は居なかったものの、いつものように一番後ろの席に並んで座った。と、偶然に手と手が重なり合ってしまい、けれどそのまま離れていかないそれに戸惑いながら隣の元親を見上げると、優しい表情に迎えられられて一層胸が騒いだ。


「もうすぐだからな」


言外に、大丈夫か?と首を傾げる元親の視線に掻痒感を味わいながら俯くようにして頷いた元就を、動き出したバスのエンジン音が包んだ。
いつか叶うなら遠くへ行きたいと思っていた。自分のことなど誰も知らない場所へ。あの時それは逃げることを意味していたけれど、今は少し違う気がした。父親に自分の本当の気持ちを言えたから、だろうか。
生きたいなんて、望む権利などないと思っていた。生きることは贖う為に許されているものであって、自分の為に望むなんて身の程知らずだとずっとそう思ってきた。けれど胸の奥底に沈めて蓋をしてきたものは、自分でも驚く程に強いものだった。その蓋を外したのは他でもない元親の存在、その言葉。
この無償の優しさに甘えていいのか、まだ迷いがあることは確かだ。いつまで甘えるつもりだ、と心ではいつも思っている。そして一体いつまで甘えることが許されるのだろう、と考えると怖かった。元親が自分から離れたいと少しでもそう望んだ時、笑って自分から手を離してあげなくてはならない。それを出来る自信が今の自分には…ない。
そこまで考えて、深みに嵌まりそうな思考に蓋をした。今は甘えよう。何もかもが中途半端に漂ったままの今ならそれも出来る。そうした考えは自分の性分からは随分とかけ離れたものだったけれど、遠くの知らない土地に来たせいか現実感が薄らいでいて、そうすることは案外に容易だった。
十数分後、元親に続いてバスを降りると、先程まで微かで朧げだった潮の匂いと波の音をはっきりと感じることが出来た。海など写真か映像でしか見たことがないはずなのに、と思いつつ直感や本能でそう感じたらしいと結論付けて、差し出されていた手を握ると元親はまた嬉しそうに笑った。


「まだ半年も経ってねぇんだよなぁ」
「懐かしい、のか?」
「う〜ん…そうだなぁ」


元親は照れ臭そうに、でも複雑な表情で曖昧にそう答えただけだった。
そこから更に数分歩き、年季の入った民家を曲がって細い道路に出た途端、正面に夏の太陽を受けてきらきらと輝く水面が見えて元就は息を飲んだ。視界を遮るものなしに、空と水平線が混じる。海の濃い青、空の明るい青、積乱雲の混じり気のない白。胸の高さ程ある堤防越しにでも、圧倒されるような光景だった。近くに港があるらしく、何隻かの船が滑るように視界を横切って行く。


「俺が生まれ育った場所だ」


それは写真で見た通りの、いやそれよりずっと広く果てしなく、圧倒的な風景だった。一定の間隔で打ち寄せる波の飛沫音、少しベタつく風に乗って届く潮の匂い。視界に収まらない程大きくて、でもそれが少し怖くも感じる。


「懐かしい…そんな感じがする」
「そっか。まぁ一度写真で見てるしな」


最初は元就もそう思ったのだが、写真を初めて見た時も何故か漠然とそう感じていたので、その違和感のようなものが深まったと言う方が正しかった。
この波の音から潮の匂いや風に至るまで、まるで初めてな気がしない。いつかどこかで見たことがあるのかも知れないと考えて、すぐに有り得ないと否定した。そんな話を聞いた経験も記憶も全くないのだから…。


「今は時間を置くべきだと思う」


ふと隣で発せられた言葉に、それまでの思考が一気に霧散した。元親の視線は遠くの一点に注がれたままで、あれ以来初めて聞いた真剣な声音に鼓動が速まるのを感じた。自然と握り締めた拳に視線を落とす。けれど考えていたよりずっと平常心が保てている事実に、複雑な思いが元就の胸を占めた。


「…わかっている」
「また冷静に話しをするべき時が来る。その時は俺も付いてる。昨日思ったんだ…絶対、わかり合える時が来るって」
「本当に…そう思うか?」
「あぁ、本当だ。俺はそう信じてる。元就はどうだ?」
「……そうだと、いい」


本当にそうだといい。
ずっと信じるものが欲しかった自分に、それをくれた元親の言葉を信じる。だからもう、俯くのは止めよう。そう思って顔を上げた元就に、元親は力強く頷いてみせてから切り換えるように弾けた声を上げた。


「よし!じゃ帰るか!」










繋いだ手が教えてくれる。忘れていたものを。知らなかったものを。
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