間断なく降り続く雨の音が二人の鼓膜を揺らしていた。それはまるで高まりすぎた熱を冷ますような、伝えることを妨げるような雨だった。
その数秒にも数分にも感じられる沈黙の後、ようやく元親の耳に届いた声には明らかな動揺が滲んでいた。



『…どうして…そんなこと…』
「俺が全部受け止める。お前の味方だから」



だからお願いだ。言ってくれ。
助けてと、生きたいと、言ってくれ。
そう願った。



『…もと、ちか…』
「うん」



続く言葉を待っていたその時、元就が息を呑んだのが電話越しにでもはっきりとわかった。さらに、ガタンッという受話器が落とされたような音が続き、緊張が走る。



「元就!おい、どうした!」
『…たす…けて…っ』



ほとんど消え入りそうな声だった。けれどそれは幻聴などではなかった。確かに聞こえた。待っていた言葉が、嘘ではない気持ちが、元就の声で、確かに。
次の瞬間、元親は持っていた傘を投げ捨て、そうすることをようやく許されたかのように目の前のマンションへと走り出していた。エレベーターは悪い予感通り6階で止まっていた。すぐさま階段を駆け上がる。間に合え、と何度も繰り返しながら、それは果てしなくも思える距離と時間だった。そしてようやく記憶を頼りに辿り着いた部屋のドアに取り付くと、もはや躊躇いなどなかった。鍵のかかっていなかったらしいドアは音を立てて簡単に開いた。



「元就!」



一瞬、目に入った光景と肌で感じた雰囲気の異様さに、元親は呼吸を忘れてその場に立ち尽くした。
玄関に背を向けて立っていた目の前の男が振り返る。その先に、元就がいた。



「も、と…ちか…」



その視線と声に導かれるようにして、元親は元就の側へ駆け寄っていた。小刻みに震えていた身体に触れると、ふらふらとした視線が合った。その存在全てが、目の前の恐怖に怯えていた。
言葉が何も出て来なかった。
目の当たりにした現実に打ちのめされていた。
服や床に散った血。割れたガラス。倒れた椅子。傍らに転がった受話器。そして何より、首に巻き付いた紫色の痣。
ソファを背にした元就の身体は小刻みに震え、それでもまだ更に後退しようとしていた。
それは言葉に出来ない程の酷い有様だった。



「誰だお前は」



背中を刺されるような努気を孕んだ声に振り返ると、こちらを見下ろしていた男と目が合った。そこに立っていたのは、先程マンションの前で目が合った神経質そうなスーツ姿の男だった。
咄嗟に頭が理解する。この男が元就の父親で、元就を苦しめている張本人なのだと。
カッと全身に怒りが込み上げた。今にも殴り掛かりそうになる衝動をどうにか拳を握り締めることで制御する。この場で一番冷静でなくてはならないのは間違いなく自分だと、分かっていたからだ。



「長曽我部元親。こいつのダチだ」
「…そうか…こいつだな?」



男は元就を見てそう言った。どういう意味だ、と言外に睨み付ける。元就はぎこちない動きで懸命に首を横に振った。きっとそうすることすら精一杯なのだろう。すると、それまで見下すように引き攣った笑みを湛えていた男の表情が一変した。



「放っておけばつけあがりやがって…テメェ…また俺を裏切りやがったな!」



突如として激昂した男の態度に、戦慄した。腕の中では元就の小さな身体が硬直していた。常識など吹き飛ばす程の事態、その渦中に身を置いた元親に冷静さなど保てるはずがなかった。



「何言ってんだよ…!ちゃんとこいつを見ろよ!あんたの息子だろうが!」
「お前なんかに何が分かる!こいつは何もかも俺から奪いやがったんだ!」



空気にビリッと電流が走ったかのような男の声に、息を詰めた。それは元就の耳を塞ぎたくなるような言葉だった。しかしそれでは相手の声も自分の声すら聞こえなくなってしまう。どうしてこんなことになってしまったのか、本人ですら分からないのかも知れない。けれど本人達にしか解決出来ないということは明らかだ。元親は目をぎゅっと閉じて懸命に耐える元就を抱く手に力を込めると、再び視線を上げた。男の目元は、元就と良く似ていた。



「いい加減、弱い自分を認めろよ。そしてこいつを救え。あんたにしか出来ない義務だ」
「…何だと?」
「元就、ちゃんと言うんだ。お前の本当の気持ちを、言葉にして伝えろ」



戸惑いながらも問うような視線に、大丈夫だと言うように頷いて更に強く抱き寄せた。ほんの少しの隙間すらない程に。体温も鼓動も全て共にあるのだと言うように。
浅い呼吸を繰り返していた元就は、それでもしっかりと頷いた。そしてゆっくりと、けれど真っ直ぐに、目の前に立つ父親を見上げた。



「…わ…ぼ、くは…兄さんも、母さんも、好き…だから代わりに、なりたかった…です。父さんが、好き…だけど、どうすればいいか、わからなくて…でも今は…い、生きたい、と思う…から、」



何度も途切れながら不器用な言葉が紡がれる。それでも十分、痛いほど伝わってくる。これだけの想いを言葉にするということは、元就にとってどれだけの勇気がいることだろう。想像もつかない。



「元親がいる、から」



一瞬、元就が何を言ったのか分からなかった。瞬きを忘れてその横顔を見つめていると、射抜くように真っ直ぐな視線が向けられ、息を飲んだ。言葉を失くして立ち尽くしたままの男もまた、茫然としているようだった。
今までの二人で過ごした時間が頭を過ぎる。涙腺に待ったをかけてから、ようやくその元就に力強く頷いてみせた。



「元就はしばらく預かる」



それだけ言うと、肩を抱いていた腕を腰に回して手助けしながら元就を立ち上がらせた。
腕を肩に回させて支え、ゆっくりと男の隣を通り過ぎて玄関に向かった。元就は精根尽きたように俯いたままだった。
ドアを開けようとした時、今までとは明らかに違う焦ったような声が背後から聞こえた。それは男が初めて見せた動揺だった。



「許さん…!戻れ!」
「また話し合う時が来る。元就の言葉の意味をよく考えろ」
「ふざけるな!こいつは俺の…!」
「あんたのものじゃねぇよ…元就の命も人生も、全部元就のものだ。それ以上近付いたら警察を呼ぶ。これは脅しじゃない」



ドアが閉まる直前、元就の名を呟く声が聞こえた気がした。
部屋を出てエレベーターに乗って息を吐いてもまだ心臓が早鐘を打っていた。体を預けて辛うじて立っていた元就の表情は見えなかった。
マンションの前に濡れながら転がっていたビニール傘を元親が拾おうとした時、元就が限界を迎えたかのようにその場に崩れ落ちた。



「…頑張ったな…一緒に帰ろう」



元就のぼろぼろの身体を背負うと、元親は傘をさして歩き出した。ざあざあと身体を濡らす雨が心地よかった。背中に感じる微かな体温と重みに、もう涙を堪えることが出来なかった。










本当の心が再び呼吸した日
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テーマ「人外ファンタジー」
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