何度意識の沈下と浮上を繰り返しただろうか。 自分のものではないような重たい瞼をやっとの思いで開くと、辺りは既に明るくなっていた。目に映る光景は何一つ変わってはない。 父があれからどうしたのか、何もわからない。 ただとても、静かだった。 血の匂いが鼻に纏わりつき、何処からくるのかわからない痛みが全身を麻痺させ、身体のあらゆる機能が泥濘の中にあるみたいだった。 死に損なったのだと知る。 また、死ねなかった。 あのまま死ねればよかったのに。 死なせてはくれなかった。 死ぬことも赦されない。 あの時から、守られた命が重たかった。 重たくてもう、とても歩けない。 再び沈み込みそうになる意識を、カチカチという時計の音が引き止めた。のろのろと視線を巡らせ時計を見ると、針は既に正午過ぎを差していた。 あれから半日以上経っていたが、それが長くも短くも感じられた。 (元親…) やはり、失敗した。 約束なんてするべきではなかった。 真実を話すべきではなかった。 もう今のままの関係ではいられない。 父が言ったように、このままでは元親を死に追いやることになるかも知れない。かつての兄や母のように、自分のせいで。何よりそれが怖い。死ぬよりずっと、怖いことだった。 最初から知っていたはずだったのに。よりどころを得るということは、こんな風にどんどん弱くなっていくということなのだと。それでもいつの間にか縋ってしまっていた優しい言葉を、自分に向けられる笑顔を、名前を呼ぶ声を、元親という存在を今でもまだ、どうしようもなく希求している。 今まで自分に言い訳をしながら頼りすぎていたけれど、もうこれ以上巻き込むことは出来ない。切るなら今。今ならまだ、元親と出会う数ヶ月前の自分に戻れる。そうすることは元親の為でも、自分の為でもあるのだ。だから、早く。 それなのに… (どうして、こんなに胸が苦しい…?元親と出会う前よりずっと苦しくて…寂しい) そんな思考をも隅に追いやってから、横たわったままなけなしの力を振り絞ってスボンのポケットをまさぐった。そして手にした紙切れには、いつだったか元親から貰った電話番号が綴られていた。決してかけることはないと思っていたのに、いつもこっそりお守りのように持っていたそれ。あの時言われたような使い方ではないけれど、今はこうするしかない。這うようにして移動し、震える手で受話器を取る。力が入らずに苦労して番号を押し終えると心の準備をする間もなく元親が出た。 『元就か!?』 「…あぁ」 『どうした、何があった?』 「…すまない」 揺らぎそうになる。声を耳にしただけで、こんなにも泣きそうになってしまうなんて。自覚していたよりずっと、自分の中の元親という存在の大きさを知る。いつもそうだった。失う時になって、初めて気付く。そして今度は、自らそんな相手に今から嘘をつくのだ。それでも声は震えなかったし、掠れてもいなかった。これならきっと大丈夫、そう思った。 「…父と、話をした」 元親が驚きに息を飲むのがわかった。どうか感付かないでくれ、と願いながら続ける。 昨夜の父は酒が入っておらず別人のように穏やかだったこと。たくさん話しをしたこと。今までのことを涙ながらに謝罪されたこと。許し合えたこと。今日から二人で旅行に行くこと。だから花火を見に行けなくなったこと。 沈黙が怖くて自然と早口になったが、そうして話を終えるまで元親は一言も口を挟まずに黙っていた。 「急な話ですまないが、」 『…花火は中止みたいだ』 「え…?」 『雨が降ってる』 そう言われて耳を澄ましてみれば確かに雨音がした。けれどそれがカーテンの向こう側のものなのか、電話先からのものなのかの判別はつかなかった。 「あ、あぁ…だから、」 『元就、本当の事を言えよ』 一瞬、心臓が止まったようにも跳ね上がったようにも感じた。すぐにどくどくと痛みを伴う鼓動が大きくなる。電話越しにも拘わらず心の動揺がすべて見られているかのような感覚に陥った。 『お前はどうしたい』 「…なに、を…」 『親父がどうとか兄貴がどうとか、そういうの全部とっぱらってさ…お前はどうしたい』 「…だから、父は…わかって、くれたと…」 『もういいんだ、元就。もう嘘はつかなくていい』 高そうなスーツを着た男がじっとこちらを見ながら目の前を通り過ぎた。しかし、その不躾な視線に構う余裕など今の元親にはなかった。この電話の向こうで今、元就はどんな顔をしているだろうと思うと胸が痛んだ。口に出来るのは無責任な言葉だけだということは自覚していたけれど、心に偽りはなかった。 「俺は頼りにならない、それはわかってる」 痛いくらい、わかっていた。救う力も術もなにも持っていやしない自分に、偉そうに言う権利だって本当はありはしない。だけど、 「お前が望むなら何時だって何処へだって行く」 『…迷惑だ』 だったらどうしてそんなに泣きそうな声なんだ。なぁ、どうしてだ、元就。 言葉にはせず何度もそうやって問いかける。 「待ってるから」 どうしてもその答えが聞きたかった。そしてそれは元就自身の本当の言葉でなければならないのだ。でなければどこへも進めない。今までと変わらず、その場凌ぎにしかなり得ない。だから元就がそれをくれたなら、覚悟を決める。 元親は傘の柄を握り締め、電話の向こうにいる元就の元へと走り出しそうになる衝動を何とか堪えながら辛抱強く待った。 地面を濡らし続けていた雨はいつの間にか勢いを増していた。 「元就…お前の答えを待ってる」 今、心の声が聞きたい。 |