「じゃあ、明日な」
「…あぁ」
「おやすみ」


別れ際、いつもと同じ元親の言葉に小さく頷いてから背を向けた。
重たくなった足を、そう見えないように動かして歩く。姿が見えなくなるまで元親がそこにいることを、元就は知っていた。そうしていつまでも自分の心配をしてそうしていることを。
エレベーターに乗り込んでようやく一息つく。火照った頬を両手で覆うと、血の流れる音さえ聞こえそうな気がした。
大体、元親は馬鹿だと思う。面白くもない面倒なだけのこんな人間に優しくしたりして、大馬鹿だ。明日の約束なんか、したりして。馬鹿で優しくて、暖かい。笑ったり怒ったり泣いたり、全てが真っ直ぐで今だに戸惑うことも多い。要らないと思っていたはずのそんな優しさは同情からくるもので、でもそれは決して嘘ではなくて、いつのまに拒絶など出来なくなっていた。
エレベーターを降りると再び外気に触れる。明日この夜空に花火が上がるのかと思うと、不思議な気持ちになった。今まで夜は特に嫌いだった。けれど今は明日の夜が待ち遠しくすら感じている。
人間、慣れることは得意だ。何にだって慣れてしまう。けれどこれは果して慣れなのだろうか。違うとすれば一体…。
家に入り、施錠をしながらそうした考えに頭がいっぱいだった元就に、次の瞬間、緊張が走った。
はっとして振り返ると、暗がりから人の気配がした。


「お前、どこほっつき歩いてた」


それは地を這うように低く響く声だった。直感が危険だと告げるが身体が竦み、その場に立ち尽くすことしか出来ない。
まだ八時を過ぎたばかりで父の帰宅時間までは二時間もある、はずだった。けれど部屋にはすでに色濃い酒の匂いが充満している。


「…ごめんなさい…」
「ごめんじゃねぇんだよ!あぁ?誰かと会ってたみたいだなぁ…言え、誰と会ってた」


言葉を失っていると構える間もなく首根っこを捕まれ、そのまま身体を引きずられて思い切り投げつけられた。咄嗟に頭を庇ったが、食卓の脚と椅子に背中を強打して一瞬息が出来なくなる。その後、大いに噎せて思考が混乱した。
何故…一体どうして…?


「貴様…俺を裏切る気だな?そうなんだろ!」


今度は胸倉を捕まれ、前後に激しく揺さ振られる。その度に後頭部が椅子にぶつかった。鼻腔から血が流れ出るのがわかった。
けれど父が何を言っているのか、その言葉が理解出来ない。


「身の程知らずが付け上がりやがって!」


投げ出されて横倒れになった身体に蹴りが入り、余りの激痛に視界が霞んだ。頭を何度も踏み付けられ、飛びそうになる意識の中で、父の言葉を否定することさえ出来ず、ただ痛みに耐えた。
その時、頭に浮かんだのは元親の言葉だった。
“俺はお前の味方だ”


「誰かに入れ知恵でもされたか、この馬鹿が!」
「…や…て…さい…」
「あぁ?」


一度言葉を出せば、強張っていた身体からするすると嘘みたいに力が抜けていった。


「…やめて、ください…」


耳に痛い静寂だった。
元就はゆっくりと静かになった父の顔を見た。ぼんやりと、驚きに固まったような表情が見える。


「もう、やめてください…父さん」
「お前…」


しかし次の瞬間。
空気が、表情が、凍りついた。


「俺を責める気か」
「ちがっ…!」
「奪うしか能のない奴が…その償いも出来ねぇってのか」


首を押さえ付けられ、言葉を奪われる。その手にゆっくりと力が込められていく。
違う、それは違う。
苦しい口から出るのは言葉にならない醜い呻き声だけで、それさえ伝えられない。
元就はなす術なく、ただ恐怖と絶望の前に涙を流した。


「いいか、お前は一生俺の言うことを聞いてればいい。誰かに助けて貰おうなんて考えるなよ?そいつも死ぬことになるぞ。また、お前のせいでな」





もしかしたら、本当に何もかも終わったのかも知れない。あの頃の父に戻って、また優しく笑いかけてくれるかも知れない。
そんなことを本気で考えていた自分はやはり、絆されてしまっていたのだ。
一時の夢を見ていただけだった。
夢は覚めるのだ、必ず。
目が覚めればそれが夢だったと気付く。
自分がただの黒く汚れた罪人だという、消えない現実にも。
あんなに眩しい光の下で優しさを受け取る資格なんかない。
誰かがそれを許す許さないではないのだ。
父に、許されない。
自分の為に死んだ兄に、苦しんで死んだ母に、苦しんで生きる父に、許されない。
これが現実だ。
それでも、元親のことを忘れることは出来ないだろう。
たとえ一瞬でも、それは本当に心から嬉しかったから。
今までだってこうして生きてきた。
それも今日で全て終わるかも知れないけれど。
このまま死んだら父を犯罪者にさせてしまう。そうなれば最後まで父を苦しめることになる。
死ぬなら、せめてそれだけは避けなければ。



元就の意識はそこで途切れた。










随分と長い夢を見ていた気がする。どれが夢だったか。どれが現だったか。
わかっているのは、もう戻れないということだけ。
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