元就は週に一、二度ある父親の休日だけは決して家を空けようとはしなかった。それだけは元親も口を挟む余地のない頑なさで、いくら二人でいる時間が穏やかであれそうした問題はまだ根深いのだと改めて思い知らされるようだった。それでもほぼ毎日のように昼前には元就がアパートにやって来て、夕食後にはマンションまで一緒に歩いて送るという一見は平穏な日々が続いていた。
もう随分と元就が傷を増やすこともなくなっていた。
けれど薬の塗布は必要だ。いくらそうしても消えない痣や傷跡は今も数え切れない。その数十分間は、重たい。決して変わらない現実が、重たかった。





「終わった〜!」


今日はアルバイトもなく、家で元就に教わりながらなんとか遅れ気味の課題をこなしてようやく一息をついたのはまだ昼下がりのことだった。


「やっぱ頭使うと疲れるな〜」
「まだ英語の訳が、」
「今日の分は終わり!」


元就の無言の視線が注がれていることにも気付かず、開放感を味わいながらひんやりとした床に倒れ込み、酷使した目を閉じた。今日も今日とて快晴で気温はぐんぐん上がり、扇風機しかない我が家は快適とは言えない暑さだったが、そこはまさに天国のようだ。元就も晴れた日は心なしか体調や気分が安定して良いようで、最近は口数も増え、表情も以前より豊富になったように思う。そして最近は傷や痣が目立たなくなったせいか、家に来る時は羽織っている長袖のシャツを脱いで夏らしくTシャツで過ごすようになっていた。家にいるときは気にせずに楽な格好をすればいいと言ってはみたものの、それも最初のうちは酷く難しいことだったに違いない。けれどだんだんと良い方向に変化している気がして、それは本当に、単純に嬉しいことだった。


「マジで気持ちいいぞこれ!元就も転がってみろよ」
「断る」
「え〜なんで〜」


こうして一日一緒に過ごせる日は家で課題をしたり、スーパーに買い物に行ったりして過ごすことが二人の間でなんとなくの定番になりつつあった。はじめは遠出して海や山に行ったり街に出て遊んだりしようかと提案もしてみたが、元就があまりいい顔をしなかったということもある。その際、言いにくそうに、でもはっきりとした声で「無理をして一緒にいようとしなくていい。好きなように、行ってくればいい」という台詞に、元親は馬鹿馬鹿しくなってそうした考えをやめた。人混みを好まない元就にはかえって負担になるかも知れない。何より、そこに元就がいなければ一つも意味がないのだから。
元親が問題と向き合う間、元就は隣で静かに文庫本を読み、時折ちらりと進行具合を確認したり間違いを指摘したりと、まるで家庭教師のようでもあった。とにかくそのお陰で、この調子だと政宗に言われたようなこともなく余裕を持って終えることが出来そうだ。そうだやれば出来るのだ、俺は。なんだか気分がいい。夕食はカレーにしよう。ルーはあるから肉と野菜を買いに行って、楽しみにしているドラマを見ながら食べよう。予告では確か、夏祭りデートの話だった…はずで…そういえば…この間…


「元親…?」


元就が自分を呼ぶ声が遠くに聞こえた気がしたけれど、すぐに吸い込まれるような眠りに入っていった。





床に大の字で転がってすぐ、言葉少なになったと思えば元親はどうやら眠りについたらしい。呼び掛けに全く反応しなくなっていた。最初はちらちらと様子を伺っていた元就だったが、しばらくして読みかけの本を閉じると眠っている元親にゆっくりと近付き、その顔をそっと覗き込んだ。普段は大人の顔をした大男が、今は歳相応…いや、随分と幼い寝顔で静かな寝息をたて、無防備な姿を見せていた。
風に揺れる銀色の髪、左目の眼帯、綺麗に通った鼻筋、僅かに開いた唇、上下する厚い胸板、血管の浮き出た大きな手。こうしてこんなに近くでじっくりと元親を見るのは初めてのことだった。その目に留まる全てが自分とは正反対だ。全く似ていないけれど、例えるならばそう、兄のようだと思った。自分とは対象的に光りに愛された存在。元親もいつか兄のように、いなくなるのだろうか…。
ほとんど無意識だった。元親の上下する胸に手を触れたのは。
とく、とく、とく、という鼓動と確かな熱が、しっかりと手の平に伝わってくる。そのうち自分の心臓がそれに呼応するように同じリズムで鼓動するのを感じ、少しの安心感を得た。そうしてしばらく眠る元親を眺めているうちに誘われるように眠気がやって来た。少しだけ躊躇したが結局は簡単に誘惑に負けてその場に横になると、元親の言うようにひんやりとしていて気持ちが良かった。当然床は固く、身体に少し痛みを感じたけれど堪えられないものではなかった。それより今は、とても眠い…





暑さと痛みでゆるやかに意識が浮上した。最初に目に入ったのは天井だった。一体いつの間に、どれくらいこうして眠っていたのかさえわからない。まだ頭が働ききらずぼんやりとしている。そして何度か瞬きをして首を右に回した途端、


「え…?」


間抜けな声が出た。
無理もない。眼前に元就の顔があったのだ。元親の腕を枕にして、すやすやとまるで猫が擦り寄るみたいに、小さな身体を丸くして。


「元就…?」


反応はない。
そういえば前も同じようなことがあったなと思う。そう、確か最初に話した時だ。あれからまだ3ヶ月程度しか経っていない。そう思えば、不思議な気持ちになる。あの時はまさか、こんな目覚めを体験することなんか正に夢にも思っていなかったが。


「お〜い…」


あの時と変わらずに長い睫毛、まだ幼さを残した寝顔、さらさらの髪…。
元親は無意識に、まるでその薄い唇に吸い寄せられるように顔を近付けていた。


「…ん…」


次の瞬間、眠ったままの元就が小さく声を出し、僅かに身じろいだ。逆に元親の身体は一瞬にして固まった。そして頭がだんだん冷静になっていく。先程までの自分の行動が信じられず、呆然としてしまった。どくどくと波打つ心臓が煩い。
とりあえず頭を冷やそう。そうだ、買い物に行こう。そんな風に無理矢理思考を切りか変えかけたがしかし、このままでは腕が動かせない。しばらく考えて、元就を起こさないように細心の注意を払いながらそのまま右腕で頭を抱え、左腕で身体を抱えてベッドにそっと横たえた。
そのままじっと見詰めてしまいそうになる自分に気付いた元親は、慌てて部屋を飛び出した。





たっぷり時間をかけて戻って来ると元就はまだ眠っていて、そのことに元親は何故かほっとしてしまった。最近は何もないと言っても、家ではやはり神経を張っていて眠りが浅いのかも知れない。もやもやした思いを断ち切るように視線もその寝顔から引きはがし、いそいそと夕食の準備に取り掛かった。
結局、夕飯を準備し終えて今だ眠り続ける元就を元親が揺り起こした。眠い目を擦る本人は腕枕のことなど全く覚えていない様子だったので(きっと寝ている間に自然とああなったのだろう)墓穴を掘らないようにそのことは黙っておくことにした。
寝る前に少し思い出しかけたことが不意に元親の頭を過ぎったのは、夕飯を食べながらドラマを見ている時だった。


「そういえば明日、近くで夏祭りがあるらしいんだよ」
「……」
「バイトの先輩に彼女といかないのかって言われてさ。俺、彼女いないっすからって言ったんだけど…いいよなぁ、夏って感じで」
「…行けばいいだろう」
「いや一人はちょっとなぁ…でさ、まぁ一緒に行こうっていう誘いなんだけど」


それは友達に対する、ただの遊びの誘いのはずなのに何故か元親は緊張して早口になってしまい、それを笑ってごまかした。少しの沈黙の後ぱたりとスプーンを置いた元就に、申し訳なさそうな表情が僅かに浮かんだ。


「そういうのは、苦手だ」


想定内の答えだった。それでも元親は笑った。


「だと思ってさ、穴場教えてもらったんだ」


人気が少なく、それでいて打ち上げ花火が良く見える高台の公園。時間も問題ない。


「なぁ、行こうぜ」










つかの間の平穏を、それと分かりながら過ごすことなんて初めてのことだった。

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