盛った夏の名残を惜しむように、残暑厳しい日だった。じりじりと肌を焼くような陽射しと、ゆらゆらゆれる陽炎。それでも元就の心は弾んでいた。自分の小さな左手をしっかりと握ってくれる大きな手。それが嬉しくて何度もその人を見上げるけれど、太陽の光が眩しくてその顔は見えなかった。
突然、近くで響いたブレーキの音。誰かの悲鳴。離れる手に強く押されて倒れ込んだ、熱いアスファルト。どすんという音。また悲鳴。駆け寄る大人。俯せになった身体の下に、赤い水溜まりが広がっていく。ぴくりとも動かない身体。動かない。もう二度と、動かない。
目前が一気に暗転した。
勢いのついた平手が、足が、酒瓶が、身体に迫る。ガラスが割れる音。滴る血。全身に受ける痛み。これがきっと、あの時自分が感じるはずだった痛みなのだ。
次に響く言葉は聞きたくない。必死に耳を塞ぐ。聞きたくない言わないで聞きたく…



“どうしてお前じゃなかった!”



ガタンッという音がして目を覚ましたそこは、図書館だった。
どうやら課題を片付けて、小説を読んでいるうちに眠ってしまったらしい。身体を跳ねさせたせいで音を立てた元就に司書の女性の視線が注がれたのも、けれど一瞬のことだった。浅くなった呼吸と早くなった鼓動が落ち着くのを、いつものように胸に手をあてて待った。
最近はこんなことも少なくなっていたのに。“あれ”もここしばらくはなかったのに。


(どうして…でも、いつもより酷い気分ではない…)


そうしてようやく顔を上げた元就は、窓の外が夕焼けで橙色に染まりつつあることに気付き、はっとして壁に掛かった時計に目を転じた。すでに午後六時を十数分も過ぎたところで、よく見れば疎らにいたはずの人間も今や自分だけになっている。元就は慌ててノートや本を鞄にしまい席を立つと、足早に出口へと向かった。さっき見た夢がすでに頭から消え去っていることにも気付かなかった。
小走りに建物を出ると、その気温と湿度の差に思わず立ち止まってしまった。けれどすぐに目の前のバス停の側に立っていた元親の姿が視界に飛び込み、小さくほっと息をついた。すぐに元親が気付き、笑顔で手を振りながら駆け寄って来る。


「元就!今そっちに行こうかと思って…どうした?」
「なっ…なんでもない。ただ、時間が…」
「うん。で、急いで来てくれたのか?」
「…別にそういうわけでは…」


必死に反論しようと試みたけれど、元親はただ嬉しそうに顔を綻ばせるだけで聞く耳を持つ気はないようだった。また墓穴を掘ってしまう前に渋々それを諦めた元就が、気まずい思いに耐え切れず顔を俯けようとした瞬間、それをさせないようなタイミングで元親が言葉を継ぐ。


「腹減ったなぁ〜早く帰ろうぜ!」
「あぁ」


二人揃って数メートル先のバス停へと歩きながら元就はまるで自分がこの眩しすぎる世界に溶け込んでいるかのような錯覚を抱いた。まるで本の中の世界にでも迷い込んだようだ、と。今だけは誰からの視線も気にならない。今だけは存在を認められたような気持ちになれる。元親が側にいて、自分に笑いかけてくれるだけで、そう感じることが簡単に出来た。


(これが、友達…)


それからすぐにやって来たバスに二人で乗り込んだ。いつものように一番後ろの席に、いつものように半人分の間を空けて座り、いつものようにただ黙って揺れに身を任せる。
たった十数分の間だけれど、元就はこの時間が好きだった。永遠に目的地なんかに着かなければいいのに、という馬鹿な考えも浮かぶ程に。そうして何処か遠くの知らない場所へ自分を連れて行ってくれたなら、どんなにいいだろう、と。
窓の外を見つめる元親は今、何を考えているのだろうか。


「あのさ、匂いとか気になんねぇ?」
「は?」


唐突な言葉に首を傾げながら隣を見ると、元親は何故か視線を斜め上に逸らしたまま言葉を探すようにし、そして続けた。


「えっと…ガソリンの」
「……あぁ」


まさか事故のことで気を回させてしまったのか。でも、そんなこと…そんな必要はこれっぽっちもなかったのに。
だって、今の今までそのことを忘れていたのだから。
元就は深くなる自己嫌悪を堪えるように拳に力をこめた。そしてバスの揺れに紛れるようにして、小さく頷いた。


「大丈夫だ…全然、大丈夫」
「本当か?よかった」


むしろ安心するだなんて言えるはずもなかったけれど、そう伝えた。
しかし大袈裟に安堵した様子の元親は、途端に開いていた二人の間を埋めるように座り直した。揺れる度、互いの腕や太股が微かに触れるような距離に、元就は内心で戸惑った。
気にして、気を使ってくれる。そんな価値、自分にはないのに。それでもそれが心地好くて、今までしていた自分から拒絶するということもすっかり忘れてしまったみたいに。


「…元親は」
「ん?」
「無理してないか」


もしかするとまた苦しく辛い顔をさせてしまうのではないかと思った。けれど聞かずにはいられなかった。
一瞬目を見張った元親は、するすると優しい顔になった。まるで照れているみたいな、そんな顔をして、独り言のように呟いた。


「俺、お前といるの楽しいよ。何て言うかさ、安心する」


嘘でもいい。
今、心から嬉しいことに変わりはないのだから。
こんなに、嬉しくてたまらないのだから。










それでも心の隅に黒い染みは存在し続ける。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -