少し前の雨続きの天候などすっかり忘れてしまったかのように蝉が休むことなく鳴き続け、青と白しかない空は無神経なほどに眩しい。 夏休みがやって来た。 やはり今日も元就は長袖だ。 「俺、バイトしようと思ってんだよね」 「…ん」 これはおそらく聞いていないだろうと元親は思った。先程から元就は膝の上に乗った本に夢中で、それがどんなストーリーの小説なのかはさっぱりだったが、とにかく今は話かけても無駄だということだけは分かった。もしかすると元就がこんなに何かに興味を示したのは、元親の家に置いてあった実家の写真を見た時以来かもしれない。 元親の実家はある小さな漁師町にあった。海が見える家に住み、隣近所ほとんどが漁業関係者で構成された小さな町だ。家から少し歩けば小さな港や海水浴が出来る砂浜もある。写真はそんな田舎の風景を映しただけの、元親にとってはひどく退屈なものだった。たった三年、しかも休みには実家に帰ることだって出来るにもかかわらず、母親が持って行けとうるさかったのだ。しかし、だからそんなものが元就の興味をひくとは思いもしなかったので元親は密かに母親に感謝したりもした。 幼い頃からそんな田舎町で育った元親は、ただぼんやりと将来は自分も家業を継ぐのだろうと思っていた。けれど高校進学の段になってきちんと自分の将来というものを考えたときに、初めて疑問を抱いた。海は好きだし、親父の仕事はかっこいいと思う。しかしまだもっと広い世界や自由があるのではないか、それを見てみたい、と。中学時代に仲間の為とはいえ悪い形で名を知られていた為に狭い地元では少々生き辛かったということも後押しして、元親は地元から遠く離れたこの街にやってきたのだった。最初は反対していた母親も最後には頑張れと言ってくれた。親父は最後まで何も言わなかったが、旅立ちの日には黙って駅まで見送ってくれた。歳の離れた弟は行かないでと泣いていた。 ぱらっとページの捲れる音がしてそちらに意識を奪われた。元就の視線が白い紙の上を滑っていく。話は後ででもいいかと思い、元親は自分の手元に広げた本を読むでもなく眺めながら機械的にページを捲った。何やら海賊の宝探しを題材にした昔話らしいが、内容などまったく頭に入ってこなかった。 それにしてもなかなかの穴場だったと思う。二人が居る場所はバスに乗れば十分少々の距離にある小さな町の図書館だった。夏休み中にも関わらずそれほど人が多くないことに拍子抜けしたが、それは恐らくここらかそれほど離れていない場所に大きな総合図書館があるためだろう。背丈よりも高い本棚に挟まれた狭い通路に座り込んでいても、誰からも見咎められず文句を言われることもない。少し寒いくらいの空調も有り難かった。 連れて来て良かったと思った。元親が誘わなければ、きっと元就は一日中あの家から出ることはなかっただろう。想像しただけで息が詰まりそうだった。きっと精神的にはあの家に、父親に、監禁されているのも同然なのだ。 終業式のあった昨日のうちに元親は元就にある提案をしていた。それは夏休み中は学校があるときと同じように家を出て過ごそう、ということだった。元就の戸惑った表情と、それから何かを確かめるような視線に対し元親は「一緒にいよう」とはっきり告げた。その時の躊躇いながらも頷いて見せたあの、小さな笑顔のようなもの。元親は自分のしていることが正しいとか間違っているとか、そんなことは分からなかったが、それを見ることが出来ただけで全て救われたような気持ちになった。それは他人からすればちょっとしたことだろうが、二人にとっては本当に大きな変化だった。 再び隣をちらりと盗み見る。瞬間、心臓が跳ね上がった気がした。 窓から僅かに届いた光の一筋が、その横顔をきらきらと照らし出していた。何の躊躇いもなくそれを素直に綺麗だと思った自分に元親は戸惑った。男に対して綺麗はないだろうと思いはするものの、それしか彼を形容する言葉を知らない。黒く長い睫毛、すっと通った鼻筋、薄いけれど形のいい唇。さらさらと細く柔らかい色をした髪の毛の一本さえも綺麗だった。 それなのに薄い生地とは言え夏に長袖を着て、暗い場所にいる彼。似合わないと思う。もったいないと思う。どうして誰も気付かないのだ、と思った。けれどそうは言っても光の中で笑う彼のイメージはあまりにも遠いものに感じてしまうことも否めない。そのことが悲しかった。目の前にあるはずなのに、遠く感じる。元就を形作るそれらが、掴んだら消えてしまいそうな儚さを湛えてそこにあった。 無意識に伸ばしそうになった手をぎりぎりのところで制御して、元親は膝の上で無造作に開かれた本へと視線を避難させた。こうして元就の側に居るだけで、自分がどうしようもなく非力な人間に思えてならなかった。何をどうするのが最善の選択なのか、答えはまだ出ない。 あまつさえまさか自分のせいで元就が謂れもない中傷にあうことなんてことは考えもしなかった。今まで元就のことを考えていたようで、その実自分のことで頭がいっぱいだったのだと思い知らされた。あんな場面に出くわさなければ、ずっと気付かずにいたに違いない。 そして人と関わることをやめてしまった元就の過去に、この前のようなことがあったのかもしれないと思うと悔しさが込み上げた。あれから元就は学校で自分から元親や政宗へ話しかけたりすることをしなくなっていた。いくら頭で言葉を納得しても、心のどこかでは感じる必要のないものを感じてしまっているようだった。 元親は思う。どうしてこうも世の中は不条理と悪意で満ちているのだろう、と。元就がなにをしたと言うのだ。ただ、懸命に生きているだけなのに。やりきれなかった。悪意のあるなしに関係なく、誰もが少しずつ彼から奪い、傷を付けていく。そしてもうぼろぼろになった精神でそれでも彼は生きている。ただひっそりと、いつも誰かに怯えながら。そして謂れのない自分の罪と葛藤しながら。 意味などなくとも嘆かずにはいられない。いくら他人が否定したところで彼の中の罪の意識が消えることはないだろう。それはきっと全ての根源である父親にしか出来ないことなのだということに元親は気付いていた。皮肉なことだった。父親に"赦される"ことで唯一彼は呪縛から解放されるのだ。 "どうして"ばかりが頭を占めると不健康だと客観的に理解していても、どうしようも止められなかった。すべてを破壊したくなるような強い衝動が、すぐそこに横たわっている。 「それ面白いか?」 「…ん」 ぐるぐる渦巻く感情を掻き消したくて、元親はおもむろに声をかけた。本に視線を落としたまま小さく答えた元就だが、先程から「ん」しか言わない。これはちょっと面白い、と悪戯心がむくむくと頭をもたげてくる。どういうわけかその時、元就が実家にいる幼い弟とだぶって見えてしまったのだ。決して似ているわけではない。ただその存在感というか、じゃれつきたくなるあの感じが元親を少し意地悪な気持ちにさせた。 「寒くない?」 「…ん」 「その本、好き?」 「…ん、うん」 「イチゴミルクは好き?」 「…うん」 「じゃあ…俺は?」 「…うん」 思わずふきだしそうになるのを堪えたが、それでもにやける顔はとても抑えきれるものではなかった。両手で顔を覆ってぷるぷると震えながらそれを我慢していると、不意にバタンと本を閉じる音が聞こえた。顔を上げて今のは冗談だと謝ろうとした元親は、再び一瞬にして固まってしまった。 「あ…」 顔を真っ赤にして動揺や戸惑といったもので埋め尽くした元就がそこにいた。この反応は予想外だった。ようやく会話の意味に気付き、恥ずかしさのあまりどうしていいか分からないといった表情に、つられたように元親も自分の顔に熱が集まるのを感じた。少しだけからかうつもりが、返り討ちにあった気分だ。 「あ、えっと…ごめんごめん冗談…です」 口をぱくぱくとさせていた元就は何か言おうとしていたようだったが、結局は何も言わずに再び本へと顔を俯けてしまった。横顔は髪で隠れて見えなくなってしまったが、少しだけ覗いた耳はいまだ赤かった。悪かったとは思うが、けれど元親は嬉しいと思う気持ちを抑えられなかった。少なくとも屋上で繰り返したあの時のような会話とは全く違うものだと思えた。それは気のせいなどではないはずだ。 それから二人は貸し出しカードを作って貰い、数冊の本を借りて図書館を後にした。昼食をとってから図書館を訪れたので今はもう夕方だが、夏の日は長い。日差しは少し落ち着いたものの空はまだまだ明るかった。 図書館の前にあるバス停であと数分で到着するらしいバスを待っている時、珍しく元就から口を開いた。 「…さっきの…」 「ん?なに?」 「…バイト…って…」 「あ、あぁ…」 聞いていないだろうと思っていたので多少びっくりしながら元就を見る。ちらっと寄越した不安そうな視線は、しかしすぐに足元に逃げていった。少しの緊張を感じながら元親は言葉を選んだ。顔に当たる西日は熱く、数種類の蝉の鳴き声が煩かった。 「そこのガソリンスタンドなんだけどさ」 そう言って指差した先、目の前の決して交通量の多くない片道一車線の道路を挟んだ向かい側にそれはあった。ここへ来た時降り立ったバス停もその少し手前ある。戸惑ったように元就も視線を向けた。それを確認してから、元親は続ける。 「昼前から夕方までで、週の半分くらいかな」 「……」 「そんでさ、昨日も言ったけど夏休みの間…今まで学校に行ってた時間な?一緒にいようって言っただろ?それは本当に嘘じゃなくて…何て言うか、だからさ…待ってて欲しいんだよ、図書館で」 「え…?」 それはあれから考えに考えて元親がようやく決めたことだった。自分でも随分と勝手なこと言っていると思う。けれどこれから毎日一緒に居るためにも、何をするにしても金は必要だったし、毎日遊んで過ごすわけにもいかない。かと言って元就を部屋に置いて来たんじゃ意味がないし、一緒にいようと約束したのは自分だった。 それにやはり、意地があった。それが何になのか、誰になのかは漠然としていたけれど。 元就を守れるだけの力が欲しいと強く思った。それがどうやって得られるのか分からなかったけれど。 元親は驚きに固まった元就を正面から見つめ、もう一度言った。 「だめ?」 「…だめ…じゃ、ない」 「…うん」 元親は思わず体の中心から込み上げてきた衝動でその小さな体を抱きしめたくなった。しかしタイミング良く到着したらしいバスの低いエンジンの音で我に返り、あと一歩のところでそれを思いとどまることが出来た。普段表に出す感情が少ない元就だけに、その些細な表情の変化が元親に与える影響は大きい。盛大に排気ガスを吐き出しながらバスが目の前に停車してドアが開いた。一歩前に踏み出した元就が、突っ立ったままの元親を振り返って小さく首を傾げた。そうして自分を待ってくれている。 アスファルトのむせ返る様な熱気を不快に感じる余裕はなかった。 二人一緒に過ごす初めての夏が始まった。 |