梅雨が明けても、隣の存在はそこにあり続けていた。何の理由が無くても、側にある存在。それは自分にとってどれだけの変化だったろう。すぐにこんな自分にかかわることなど止めてしまうはずだと思っていた。それなのに、今はそれを受け入れている自分に戸惑うことさえ忘れてしまうなんて。他人に期待を抱いても、絶望するだけだと知っているはずなのに。だから今の自分はどうかしているのだ。だけど…だったらどうしてこんなにも心地がいいと思ってしまうのだろう。それでも、目の前に身体を晒した時の、あの元親の辛そうな顔を見るのは胸から血が出そうな程苦しかった。こうやってまた、人に苦痛しか与えない自分に気付かされるのだ。もう嫌う自分なんて残ってやしないのに。 元就は結論の出ない思考を振り払い、目の前の書類に戻してから小さな溜め息をついた。 あれほど降り続いた雨の季節はあっさりと終わり、何とか体育祭も無事に終えることが出来た。後は本当に夏休みを待つだけ。それでももう休み明けの行事や何やらと仕事を任せられ、忙しい点では相変わらずだった。やらなければならないことが山積みで本当はそうやってぼんやりしている暇などないのに、つい一人になると終わらない考えに侵されてしまう。日が落ちるのが遅くなったとは言え夜も間近に迫った放課後の教室に居残っている者はなく、とても静かで心が落ち着いた。先程まで一緒に居た元親は、飲み物を買ってくると言って出て行った。彼が自分に付き合って居残る必要も理由もないのに、何も言わずに一緒に居る。初めは、危険な存在だと思っていた。そしてそれは今も変わってはいないはずだ。それなのに…。 気付けば堂々巡りになる思考をどうしようもなく、ともかく顔でも洗って来ようと元就は席を立ち、同じ階の端に位置するトイレに向かった。ただ、そこに先客がいたのは予想外だった。あからさまな視線を感じ、やり過ごそうと思っていた元就の行く手を遮るように、その男が声をあげた。 「毛利クン」 誰も居ない薄暗い場所で突然上背のある男に見下ろされ、それだけで元就は動揺していたが、それを内心に隠して男を見上げた。顔も名前も知らない男だった。それもどうでもいい。こういうことには、慣れている。 「なんだ」 「怪しいんだよなぁー最近」 嫌な予感がした。 踵を返そうとした時、手首を強く掴まれて思わず声をあげそうになってしまった口を咄嗟に噤む。 思い通りの反応を示して気を良くしたのだろう、その男はにやにやと卑下た笑いを貼り付け、更に続けた。 「長曽我部だっけ?あの不良」 「…何が言いたい」 「お前らデキてんだろ?」 血の気が引いていくのが分かった。自分以外の名前が出たことに、それが元親だということに、激しく動揺していた。 「だってお前らの関係性って浮かばなくない?それ以外に」 「…黙れ」 「最初はただのいじめ相手かと思ってたけど、なーんか雰囲気違うし」 不快で下品な笑い声が静かな廊下に響いた。出掛かった言葉を飲み込んで、再び手元に視線を落として冷静を装った。なにもこんな人間に関わってやる必要は無い。そんなことをしても、損をするばかりだ。 「離せ」 しかしその態度に、男の方は神経を逆撫でされたように声を張り上げた。 「まさかあの片目野郎がそういう趣味だとはな、笑える!奴のお仲間も皆ソッチなんじゃねーの?」 元就の頭にカッと血が上り、怒りで赤く染まった。 教室のある階まで来た時、不意に自分の名前が聞こえ、元親は足を止めた。気付かれないように階段のすぐ近くにあるトイレの方を覗くと、その暗がりに二人分の影があった。すぐに事情を察した元親は次の瞬間、持っていたジュースのパックを手放していた。 「おい、それは俺に聞こえるように言ってるのか?」 身体を強張らせた元就が振り向こうと頭を動かした時にはもう、元親の右手が元就の手首を掴む男の腕を捻りあげていた。顔を歪めた相手が小さく呻くのを聞いてから乱暴に手を離し、まだ呆然としている元就を自分の方へ引き寄せた。 これ以上事を大げさにはしたくない。それに相手が誰であろうと元就の前で拳をあげることに、躊躇いがあった。 「よく考えてものを言えよ」 その考えだけで自制心を働かせた元親は、相手の顔を睨み据えた。その怒りに本能で危険を察知した男は言い返すという愚は犯さず、そこから足早に去って行った。 相手に対する考えもなしに口にする言葉が、どれだけの悪意に満ちているか。自分だって偉そうに言えることではないのだけれど、少なくとももう、自分の前でだけではそれをさせない。目の届かないところで起こることに何も出来ない事に目を瞑っている、それが元親なりの贖罪でもあった。 手首を擦っていた元就が顔を下に向けたまま、ぼそりと口を開いて、元親ははっとした。 「…すまない」 「何で、お前が謝るんだよ」 「すまない…嫌な思い…また、迷惑を…」 「俺は…!俺は、そんなこと思ってない…違う。全部自分のせいなんて、思うなよ」 悔しかった。元就にこんな思いをさせてしまう自分は、まだまだ元就が頼れるような人間ではないのだ。 どうして世の中はこうも理不尽に溢れているのだろう。人一人に出来ることなんてちっぽけで、言葉も無力だなんて。 ぐっと胸に込み上げた思いが涙腺を刺激し、それをなんとか堪えて元就の頭に手のひらをのせた。しばらくその顔を上げられないように。震える声は上手く誤魔化せるだろうか。 「呼べよ、絶対行くからさ」 頼ってくれとは、言えなかった。 「…どうして…」 「俺たち、もうダチだろ?」 「……どうして…っ」 「…これが独り善がりじゃないって、言ってくれ」 自己満足の行為だなんて言っていたのは一体何処の誰だ。こんなの、相手に言葉を強請っているようなものだ。だけど、 「俺を、呼んでくれ」 「…もと、ちか…」 「…おう。それでいい」 「…ありがとう」 望んだことなどなかった言葉。初めて耳にした言葉。それは元親の目から溢れ落ちた涙を止まらなくさせる言葉だった。元就は何も言わず、顔も上げなかった。二人ともしばらくそうしていた。 望むとも望まずとも、誰の元にも夏はやって来る。 |