幼い頃から勉強が出来ることでよく人から褒められた。
勉強を頑張ることで自分が認められる気がした。
あの頃からは特にそれにしがみついてきたのかもしれない。
もしそれさえなくなってしまったら、本当に自分自身がなくなる気がした。
家の中にも外にも居場所がなくなって、生きているのに、そこに価値や意味はないと突きつけられる。
それが、怖かった。


「成績は申し分ない。しかしそれが体育を免除されるという理由にはならん」
「…はい」
「理由がないのなら頑張ってきちんと出なさい」


溜め息と共に吐き出された担任の言葉にずしりと体が重くなるのを感じ、元就は息苦しさに圧迫されて職員室を後にした。昼休みの喧騒さえ遠くに感じる職員室前の廊下に人の姿はなかった。そっと息をついた元就は数歩歩いて立ち止まり、廊下の窓から外を見た。
珍しい天気雨が降っていた。ここから見る限り空は青く晴れている。にも関わらず、霧吹きのような細かい雨が青々とした木の葉を濡らしていた。










梅雨明けが発表されないまま七月に突入した学校は、俄かに浮き足立った雰囲気に満ちていた。夏休み前の一大イベントである体育祭が間近に迫り、本格的な練習や準備が始まっているせいだ。強制的に実行委員に組み込まれるらしい学級委員長の元就は連日忙しく各所に駆り出されていた。それを口実に、競技自体には不参加でも誰からも気付かれることもなかったのは良い効果だったと思う。
そして最近、ちょっとした変化があった。学校で元親が元就と一緒にいることが増えたことによって、必然的に元就と政宗が一緒に過ごすということが増えたのだ。
政宗には全てを明かした訳ではない。ただ元来察しがいい性格のせいか、元就と元親が人に言えない問題を抱えているということは感づいているらしい。けれどそれを聞き出そうとされたことは無かった。ただ黙って、そして時折あの独特の笑みを浮かべながら心地好い距離を保ってくれている。それが政宗なりの配慮なのか、単に興味がないだけなのかは分からなかったが、元親にとっては有難かった。友人にまで嘘をつきたくはなかったし、つかせたくなかった。
数ヶ月前、この教室で出会ってすぐ意気投合した政宗は、右目のことを告白した時もそうして笑っていたな、と元親は思った。そして何の躊躇いもなく眼帯を外して見せたのだ。それは何もかもを受け入れそれを自分として認め、誇りさえ感じている男の姿だった。今まで隠して忘れることばかり考えてきた元親にとってそれは大きな革命だった。それから意を決して自らの傷を見せた元親に向かって、政宗はこう言ったのだ。
「箔がついてんじゃねぇか、色男」と。
ほぼ無意識に眼帯に触れた。それが軽くなった気がするのは、共有してくれた仲間が増えたからだろうか。携帯を弄りながら、外見に似合わずお気に入りらしいイチゴミルクのパックを銜えていた政宗がちらりと視線を寄越したがそれだけで、互いに何も言わなかった。それから不意に首を反対側へと向けた政宗の視線を追った元親は、こちらに向かって歩いてくる元就を視界に入れてはっとした。
ゆっくりと側まで来て立ち止まった元就の顔を伺ってから、何だったんだ?と声をかける。昼休みに入る前に職員室に呼ばれて教室を出て行ってから、数十分。幾分疲れた元就の様子に、不安が過ぎった。


「体育はちゃんと出ろと…」
「…そうか」


予想していた通りの答えだった。それは元親にとっても気にかかっていたことでもあった。
流石に今まで全欠席しているのを見かねたのだろう。むしろ遅すぎる位の対応だと言えるが、担任があの適当な教師では仕方がない。留年にはならないかもしれないが、親に連絡がいく可能性は十分にある。それを考えるとやはり、何とかしなくてはならない問題だった。


「でも大丈夫だ。何とかなるからさ、とにかく俺と一緒にいろよ」
「おいおい人前で告白してんじゃねーよ」


わざとらしい溜め息を漏らしながら呟かれたからかいの言葉に、こくんと頷いた元就の顔から少しだけ蘇っていた柔らかさが消えたことに気付いた元親は、すかさず元凶である政宗の足を蹴り上げた。確かに今の言葉は端から聞くと誤解されかねない。全く意識していなかった言葉を指摘され、今更ながらそれに気付いた元親は変な汗をかく羽目になった。その後に食べたパンはろくに味がしなかった。










翌日から元就は体育の授業にも参加することになった。
とにかく授業中は常に一緒に行動してその負担を減らすようにすれば何とかなると元親は踏んでいた。スポーツの内容にもよるが、そうそう一人の教師が全員を注視出来るはずもない。この時期に体操着の長袖長ズボンはきついかもしれないが、やばそうだったら無理をさせる必要も無い。とにかく出席すれば問題はないはずだ。あとは着替えの場所を考えなければならなかったが、それについてはすぐに解決した。


「なんか秘密基地みてぇだよな、ここ」
「…知ってる奴くらいいると思うが」
「俺は知らなかったけどな。まぁ知ってても来ねぇか」


今はもう使われていない旧図書室。滅多に使わることのない教室が並ぶその更に奥まった場所にあるため静謐が保たれたそこは、元就がよく出入りしている場所でもあった。移動するのは面倒だが適当な場所だった。そう言えばここにあの本は置いていないのだろうか、と考えて後方に整然と立ち並ぶ本棚に納められた多くの本に視線を巡らせていた元親は、微かな布擦れの音に、意識を戻した。元就の方へ無意識に視線を向けた元親は、瞬間どきりとした。
こちらに向けた小さな背にある、無数の痣。それは大分良くなってきてはいるもののやはり長年放置されてきたものでもう一生消えないであろうものも、そこには沢山あった。たまにその存在を忘れていても、こうして現実を目の当たりにすると目を覚まされたような気分になる。


「…昨日は?」
「…何もなかった」
「そうか…」


良かった、と出かけた言葉はぐっと飲み込んだ。
もしかしたら嘘かもしれない。それでもそれを知っても、自分にはどうすることも出来ない。ただ増えてしまった傷の手当てをして、何も言わずに側にいることしか出来ない。良いと言える筈が無かった。結局すべてはその場しのぎでしかないのだから。
ぎこちない動きで着替えに手間取る元就から目を逸らした元親は、重苦しい沈黙を振り払うように黙々と着替えに集中した。あれから時折見せるようになった元就の小さな笑顔に救いを感じてしまう自分自身に、辟易しながら。










それこそ自分の事で頭がいっぱいだということに、元親はその時、気付いていなかった。

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