雨に濡れた事に加えて、疲労も溜まっていたに違いない。
そしてあの告白―…。
その後、泣きつかれたようにぱったりと寝てしまった元就の体はすぐに発熱した。そしてそれが何とか薬や濡れタオルの効果によって収まるまで、衰弱しきった元就は眠り続けた。時折呻き声が上がったが、それも聞き逃してしまうようなほんの小さなものだった。目を覚ました時、本人はそれを覚えていない様子だったが、かえってその方が良かったと思う。まだ体力が戻ったわけではないし、不安定な状態なのは確かだ。放っておくとぼーっと虚空の一点を見つめていることが多いのはその証拠だろう。そもそも完全に回復することなんて、病院に入院でもしない限り無理な話なのだ。たとえ体力が戻っても傷が治っても、すぐにまた奪われ、傷がつくられるのだろうから。
初めて元就の家を訪ねた時、あの時も学校を一週間休んでいた。今思えば、その原因もきっと今回と同じだったのだろう。
こんなことを元就一人で抱えていることにどうして周りの人間は気付かないのだというやり場のない憤りを、元親は感じた。何より自分に対して強くそう思った。
だって、どこかおかしいと感じていたのに。何度もチャンスはあったのに。
もっと早くに力づくにでも聞き出して、事情を知っていれば何か変わっていただろうか。もしかしたら、こうして倒れるまで追い込まれなかったかもしれない。分からない。
実の親からの虐待だなんて、テレビの中の出来事にしか思えなかった。元親の父親は海の男らしく粗暴で小さい頃から殴る蹴るなんかは日常茶飯事という環境で育ったが、それは子を想う親の不器用な愛情表現であったと、家を離れて暮らす今だからこそよく分かっていた。
だからそんなこと、想像もつかなかった。
そんなものを一人抱えて、今まで何年も生きてきたなんて。
言いたいことは沢山あった。
どうして抵抗しないのだとか、どうして誰かに助けを求めなかったのかとか。
でもきっと、そうじゃない。
そうじゃないのだ。
父親が悪いことに変わりは無い。警察に訴えたり、元就の受けた分と同じだけの痛みを与えたとしても、それは決して許されるものではない。
けれど、きっと元就はそれを望まない。むしろ父親を庇うだけだろう。
それがどうしようもなく悲しく、虚しかった。
元就は父親の言葉を正しいと、そして暴力はその罪に対する罰として仕方ないと思って受け入れているのだ。
けれどそう思っていても、必ず限界はやって来る。そして追い込まれた元就は、死にたいと口にした。
自分と同じ歳の、自分より細く小さなその体に、世界中の痛みや苦しみの全てを背負っているように見えた。だから、帰りたくないと言ってくれた時は嬉しかった。元就が少しでも頼れる存在になれたら…。


「…ベッド、」


小さく呟いた声にそれまでの思考を閉じた元親は、ベッドの上に小さく座った元就に首を傾げてみせた。


「ベッド、がどうかした?」
「……」
「あ、もしかして硬い?」
「そ…うじゃない…」


俯いて言葉を継げない様子に、あぁ…もしかして、と思った。
もしかして、ベッドを譲ろうとしている…?
言葉の断片からそう読み取った元親は何の躊躇も無く、ベッドはお前が使え、と言って笑った。そして言ってから気付いた。昨夜は寝る暇も無く熱を出した元就の看病をしていて忘れていたが、一人暮らしの部屋に予備の布団などあるはずもない。どうしようかと考え、更に元就からの視線に焦った結果、フローリングの床に直に寝転がってみた。そしてそれはすぐに失敗だったと思った。元就が傷付いたような顔を歪ませたのが視界に入った。


「…元就?」


止めるまもなくベッドから降りた元就が、部屋の入り口まで歩いてそこで膝を抱えて座った。予想外のその行動に、元親は呆然とその姿を目で追うしか出来なかった。そしてもう何度となく味わったやるせなさがまた元親の胸を締め付けた。
まさか家でもそうやって、まるで存在を消すようにしているのか―…。


「じゃあさ、一緒に寝ようか」


目を丸くして信じられないという表情を、複雑な心境で正面から受け止めた。一瞬、それは高校生の男二人がひとつのベッドで寝ることに対する抵抗かと思った。しかしそれはきっと、もっと違う驚きに違いなかった。
元親にとっては当たり前の“自分を受け入れる人”の存在を、信じられないといった表情なのだろう。
そんな元就の手を取って、ベッドへ誘った。


「おやすみ」
「……」


昼間の熱気が続いているような蒸し暑い夜だった。
けれど約二日ぶりのまともな睡眠だったこともあって、元親はすぐに寝息を立て始めた。その元親に背を向けた元就は隣の存在に戸惑いながらしばらく暗闇に目が慣れるまで眠ることが出来なかった。それでも一旦眠りに落ちると、うなされることなく夜中に目覚めることも無かった。










近頃は日が暮れて暗くなるのも大分遅くなった。
大きな通りから一本入ると、住宅が立ち並ぶ静かな通りになる。気の早い街灯がそんな道を照らしていた。
今日一日はあっと言う間に過ぎていった。
二人して昼まで寝過ごし、それからホットケーキを焼いて二人で食べた。元就の体調を考慮して家でテレビを眺めたり、音楽を聴いたりして過ごした。会話は少なかったけれど、不思議と苦痛ではなかった。例の文庫本はもう読める状態じゃなかったが、それでも元就は聖書かなにかのようにじっとそれを見つめていた。早めの夕食もとり、風呂にも入ってもらって体の痣や傷に薬を塗ってガーゼや包帯も取り替えた。
それからまだ少し明るい街を元就のマンションまで二人でゆっくりと歩いている。


「もう梅雨も明けるな」


公園の片隅にほんの少しだけ植わっていた薄い紫や青色の紫陽花が、枯れ始めているのがたまたま目に入った。単純にそれだけのことで、根拠なんてない発言だった。だからそれは、思ってもいない反応だった。隣を歩く元就の表情をちらりと盗み見て、思わず息を呑んだ。
その時、元就は笑った…ように、元親には見えた。微かに、本当に微かにだが目が細められ、口端も上がったような…。
制服を身に纏った元就の真っ直ぐな髪がさらりと風に揺れて細い首筋が現れ、元親は何故かどきりとした。
そうこうしているうちに、いつの間にかマンションの前までたどり着いていた。ゆっくりと立ち止まって、少しの沈黙が流れる。


「…本当に、大丈夫なのか…?」


こくんとはっきり頷いた元就を前に、それしか言えない自分がどうしようもなく情けなかった。たとえ大丈夫でなくとも、元就はそう言うしかないのに…。真実を知った今、自分に出来ることは聞く前とさほど変わらないのだということに、元親は気付いていた。所詮高校生の身ではあまりに無力だ。だから今は、数時間後に会えるということを信じて見送るしかない。
目を伏せたまま、じゃあ…と言って、元就が背を向けた。


「また…!また、明日!」


咄嗟にその背中に声をかけると、少しだけ目を丸くした元就が振り返った。それからまた小さく頷くと、足早にマンション内へ消えていった。その背を見送りながら、元親は握った拳に力を入れてぐっと堪えた。
今まで、この拳で様々なことを解決してきた。
今までのそれらとは状況が違いすぎるけれど。
こんなもどかしい思いも、久しくしていない。
このままでいいはずがなかった。


「どうすりゃいい…」


ずっと吐き出せなかった弱気の言葉が、情けなく漂った。










行き場の無い不安を煽るかのように、生温い夜風が髪を弄んだ。
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