何かにうなされることなく目覚めたのは久しぶりだった。
未だ働かない頭をゆっくりと動かし、ベッド脇に無造作に置かれたアナログ時計に目を止める。部屋の明るさから、既に1日の半分を数分過ぎた午後だと悟った。目蓋や頭は泥が沈んだように重たかったが、ゆっくりと起こした身体は少しだけ痛みを伴い、けれど少しだけ軽かった。
そのままベッドの上でぼんやりと時計の針が規則的に進むのを眺めていると突然ギィと音がして、そろそろと玄関のドアが開いた。はっとして身を固くした元就だったが、そこに現れた元親を見て、少しだけ息を吐いた。その元親はベッドの上で起きていた元就に気付くと、安堵したように笑って部屋に入ってくる。先程のまるで空き巣のような帰宅は、どうやら元就を起こさないようにという気遣いからだったらしい。その手にはいくつかのビニール袋を提げていた。


「おはよう」
「……」
「腹減らないか?」
「……」
「…つか、あー…んー…」


何かを言い淀む元親を、元就はまだ働ききらない頭に疑問符を浮かべながら眺めた。しかしそんな元就の視線に耐えられないというように、元親は何故か視線を泳がせた。


「…とりあえず、これ」


それだけ言って差し出した袋をベッドの上に置くと、元親は玄関横の小さな台所へと姿を消した。自然に視線はその後を追った。元就のいるベッドの位置からはちょうど所々塗装の剥がれかかった金属の玄関ドアが見えた。その玄関を入ってすぐ右側にある簡易な台所はちょうどベッドのある部屋とを区別する薄い壁で死角になっている。どうやらその台所の先に洗面所と風呂があるらしい。ベッドの頭に面した壁は中途半端な所で終わっていて、ほぼワンルームの体を成している。それでも不動産屋はこの妙に頑なな壁を指しながら、1DKだと言い張るに違いないと思った。ようやくそれくらいには思考が働いきた元就は、二度目にしてようやくゆっくりと元親の部屋の全貌を把握した。
六畳程の部屋に置かれた少し大きめのベッドの向かいには小さなテレビやコンポなどがベッドに寝転がって見ると丁度良い高さと位置に並び、部屋の真ん中には正方形のローテーブルが置かれている。玄関や大きく開かれた部屋の出入口とは対称にある大きな窓の外にはその幅と同じだけのベランダがあるらしい。カーテンを開け放った窓の外は、眩しい程の快晴だった。ひらひらと洗濯物が風に揺れている。思わず眼を細めた元就が、それを自分の制服だと気付くまでに数分を要した。


「ぁ…」


気付いた途端に自らの格好を改めて確認した元就はサーッと血の気が引いていくのを感じた。
どうして今まで気付かなかったのだろう。大きすぎる長袖のTシャツは今にも肩が抜けそうで、その上、下には何も身につけていなかった。
もしかして、と思いながら先程元親が傍らに置いていった白い袋の中を覗くと、新しいロングシャツに、綿ズボン、下着が入っていた。どれも大人の男物の一番小さな規定のサイズだ。
台所からは、まな板の上で何かを切る音や、フライパンで何かを焼く音が聞こえてくる。
元就はしばらく躊躇ったが、意を決したようにそれらを身につけると、今度は居心地の悪さに戸惑った。
昨日のことは、覚えている。
初めてだった。
初めて―…


「…良かった」


食器やグラスを両手に持った元親が顔を出し、元就の姿を見るなり、笑顔でそう言った。
何が、とは言葉にならなかった。その笑顔に戸惑いと恥ずかしさがいっぺんにやってきた元就は益々頭を俯かせた。
それで元親が近付いたことに気付くのが遅れた。身構える間もなく、元就の額の上に大きな掌がのっていた。


「熱はもう大丈夫だな」
「…熱…」
「今朝ようやく下がったんだ」
「ずっと…寝てたの、か…」
「あぁ」
「……すまない…」


本当は、違う言葉が出掛かった。けれど、元親はただ笑っただけだった。
それから元親が用意したお粥を時間をかけて胃に収め、念のためと言われて薬も飲んだ。その際、実は座薬を使おうかと思った、という元親の恐ろしい告白に、元就は完全に動きを止めた。すぐに冗談だと笑った元親だったが、元就は全く笑えなかった。










こんなに温かい湯に浸かったのはいつ以来だろう。これが安心感、というのだろうか。橙色に灯った電気や小さな風呂場を満たす湯気にほっとした。傷がじんじんと痛んだが、それさえ心地良かった。ただ、頭はまだぼんやりとしている。


「……」


あの左目を見た時。場違いにも、その奥の瞳の色が見えないことを残念だと思った。やはり右目と同じように、海のような色をしているのだろうか。
その瞳で、元親はどうしてあの時…泣いたのだろう。
昨日、あれだけ死にたいと思っていたのに。
それなのにどうして…生きるために寝て、食べているのだろう。どうして泣いて、すがって、息をしているのだろう。
そしてあの時どうして、元親に知って欲しいと思ったのだろう。自分の罪は許されるのだと、そう言って欲しかったのだろう。


「…………」


結局答えは出ないまま、元就は風呂を出た。
もたもたと昼間着替えた新しい衣服を着る間に、思わず小さなくしゃみをした。するとどういう訳か元就の髪を乾かす役目を元親が勝手出て、何年か振りにドライヤーを体験することになった。ベッドに座り、背後から髪を弄られる。むずむずするような感覚に耐えながら、元就はじっと身を任せた。今日の元親はまるで昨日のことなど忘れたかのように明るく振る舞っている。
窓の外は既に夕暮れだった。
いつの間にか制服は取り込まれ、綺麗に畳まれて部屋の隅に置かれていた。ふと温風と音が止まった。髪を触っていた手が、離れた。


「どうする…?」


背中越しに、元親はそれだけ言った。
沈黙が落ちる。
元就はずっと考えていた。
父は、昨日から出張に出ているはずだ。居間のカレンダーにそう書いてあった。予定では明日の夜まで、帰ってこない。
けれど…


「元就…」


こんな自分でも…わがままを言って、いいのだろうか。そしてそれは、許されるのだろうか。


「…帰りたく、ない…」


ここに居たい。
それが精一杯、今の正直な元就の気持ちだった。


「…うん」


それを聞いて、元親は嬉しそうに笑った。










慣れないその温もりに、どうしようもなく戸惑って、涙が溢れた。

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