小さなナベの中でこぽこぽと牛乳が沸いている。それを見ながら、元親の頭にぼんやりとした古い記憶が浮かんでいた。はっきりとは覚えていないような記憶であるのに、それに呼応するかのように傷が微かに疼いた。
しばらくそうして台所に立ち尽くしていた元親だったが、目の前の沸騰に気付き、慌てコンロの火を止めた。小さく頭を振ってから、漏れた溜め息と共にそれを二つのカップに注いでいく。ふんわりと立ち上る湯気と甘く優しいと香りに、緊張と疲労で強張った気持ちがゆっくりと和らいでいくような気がした。
それを部屋のテーブルまで運び、ベッドに目をやる。普段元親が大の字になって寝ているそこに、今は小さな塊があった。それは布団にまるで子猫のように丸くくるまって寝ている元就だった。
僅かに布団から覗いている顔を盗み見れば、その目は閉じられているのに赤く、黒い髪はしっとりと濡れていた。その小さな寝息を確認して、元親は床に腰を下ろした。それから少しの音もたてないようにそろそろと牛乳を一口だけ飲んだ。食道から胃が熱くなって、優しく体に染み込んでいく。自然と溜め息が出た。同時にようやく頭が正常に働くようになってきたらしい。カップをそっと置き、薄い湯気越しに白い塊を再び見る。顔は向こうの壁の方を向いていて元親が座っている所からは見ることは出来なかったけれど、それが今は丁度良いような気がした。時計は三時を回っている。元就をこの部屋に担ぎ込んでから一時間は経つ。あれから元就はずっと眠り続けている。
今になって、あの公園からは元就の家の方が近かったと冷静な頭で考えることが出来た。けれどその時、その選択肢は元親の頭に全くなかったし、あったとしてもきっとここに担ぎ込んだだろうとも思った。あの後、元就を背負って必死にたどり着いた部屋でまず、体温を奪い続けているであろう元就の制服を脱がせにかかった。躊躇など一切なかった。けれど、ボタンを外していくうちに手が止まった。随分と久しぶりに目の当たりにしたその体は、危惧していた通り、いやそれ以上の有り様だった。良くなるどころか一層酷くなっている。目を背けたくなるような無数の内出血や切り傷の痕や痣。酷く痩せ細った小さな身体に不釣り合いの数々に、悲しみと憤りが溢れた。しかしとにかく、そんな痛々しい体に響かないように、着ている全てをゆっくりと脱がせた。それから素早くタオルで体と髪の水分を拭きとってから、長袖のTシャツを引っ張り出して着せた。体の大きさが全く違うせいで、上着だけで十分その役割を果たしていた。それでベッドに横たえて布団を被せ、自身も適当に着替えて今に至る。
外の雨は相変わらず、衰えることなく降り続いていた。そのせいで、この時間でも外は夜のように暗い。遠くに稲光を見るなり元親は思い立ったように立ち上がり、静かにカーテンを閉めた。それで心なしか、部屋に響く雨音が静かになったような気がした。
再び蛍光灯の明かりの下に戻って座り、テーブルに置いていたこの春に買い換えたばかりの防水携帯の電源も落とした。鞄を持たずに学校を飛び出したけれど、いつも身につけいる財布と鍵さえあれば今のところ何ら問題はなかった。明日からは週末で学校は休みだが、それも寧ろ都合が良かった。
それから、もうとても読むことは出来ないであろう文庫本を撫でた。何とか乾かしてはみたもののあまり意味はなかったようで、海を見に行く少年の話であるらしいそれのタイトルが辛うじて解読出来るだけだった。
ふと、あの時の元就の言葉が思い出された。


「兄さん、か…」


目の前の元親を見て、兄さんと、確かにそう言った。正確には元就が見ていたのは元親ではなく、その“兄さん”だったのかもしれない。あんなに近くで見ても判別がつかない位、あの時の元就は普通ではなかった。そしてあの言葉…。
まだ現実じゃないような感覚だった。けれどあれはどう考えても冗談などではないだろう。本当に、心から発した言葉だった。そうやって疑いさえ抱かせてはくれなかった、悲しい言葉。
死にたい。そして、殺してくれ。
そんなことを言われたのは、もちろん初めてだった。それを元就は、元親にではなく“兄さん”に訴えたのだ…


「…っくし…!」


思わず、考えを断ち切るような大きなくしゃみが出てしまい、咄嗟に口を抑えた。が、遅かった。ベッド上の元就の体がもぞもぞと動き、やがて首がゆっくりとあちらこちらを見回すように動いた。そして寝返りをうったと同時に、元親と目が合った。


「あー…ごめん、起こした?」


目を少しだけ大きくして驚いているようだっけれど、微かな声さえ上げなかった。それほどまでに驚いたのか、または相当に疲れているのか。同じように元親が二の句が継げずにいると、突然に元就の体が勢いよく起き上がり、壁の方へ後退った。途端、


「…いっ…!」
「大丈夫か!?」


身体の怪我に響いたのだろう、小さな悲鳴を上げてうずくまった元就に駆け寄り、その背中に手を置いた。たったそれだけで、びくりと緊張する元就に、元親は顔を歪めた。その姿が、反応が、悲しくて悔しくて堪らない。敢えてその手は離さず、そのまま背中をゆっくりと擦りながら、それを悟られないように言葉を続けた。


「ここ俺ん家だから。まだゆっくり寝てていいぞ」


一呼吸を置いてゆっくりと上がった顔を、至近距離で見た。今度はしっかりとその鳶色の瞳は元親の目を捉えていた。困惑とか不安とか、色んなものを湛えたような瞳に一瞬言葉を詰まらせた元親だったが、止まっていた手を緩やかに動かしながら、そんなもの必要ないと言うように笑った。


「あ、暖かい牛乳飲むか?それとも風呂に入りたい?」


じっと元親に向いていた視線が、再び落とされた。布団を掴む手も頼りなく、血の気が失せていた。


「……か、える」


ようやく口にした言葉はいつかと同じ台詞だった。けれど今度は決してそうさせてやるつもりはなかった。元親は何も言わず、ベッドの横、床に膝をついて元就を見つめていた。覚悟は出来ているつもりだった。だからもう、中途半端に関わったりしない。こんなことになるなら初めからそうすれば良かったと、後悔をしたのだ。


「駄目だ」


静かな意思を持って言った。その言葉にさえ、小さな肩が震えた。まるで叱られた子どものように、不安げな顔を見られまいと頑なに俯いている。だからそうではないと、元親はその頭に手を伸ばした。無意識だった。途端にびくりと身体を強張らせた元就に、一瞬、その手が止まった。けれど、


「大丈夫だから」


頭を撫で、触れた髪はまだ少し濡れていた。こんなに近くにいるのに、その表情は見えない。けれどしばらくそうしていると、微かな震えが消えていくのが分かった。それからゆっくり、恐る恐るというように元就は顔を上げた。どうしていいか分からない、といったような表情だった。たっぷりの呼吸の後、元親は言った。


「なぁ元就…、もう一度言うよ」
「……」
「俺はお前の味方だ」


よく考えてみれば、一度も言ったことはなかった。けれど、ずっとそう伝えたかったような気がする。胸の内ではずっとそう思っていたのに。隠した痛みを知ったあの日から、思えば後悔ばかりしている。だから、そうした思いを今度こそしっかり伝えた。
不意にぽろぽろと元就の赤い目から溢れたのは涙だった。本当は、出来ればもう、見たくはなかったけれど。それをとても綺麗だと、そう思った。










少しだけ、少しずつ、少しでも。
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