夜でも蒸し暑いこの季節に、しかし体はがたがたと震えた。それを必死に抑えつけながら、恐怖と痛みに耐え続ける。夜に明かりも灯らない部屋で、今日も息をしていた。


「何か言ったらどうだ」


そうやって自分を蹴り付ける父の表情に、時折苦しそうな悲しそうな影が差していることに気付いたのは何時だっただろう。出来ることならば、気付きたくはなかったと思った。それを目にしてしまうと、受けた傷以上の痛みが左胸に走るからだ。だからいつもそれを見ないようにと、両の目を閉じた。逃れられない何もかもから逃げるように。
そんな出口のない暗闇に長く身を置いていると、知らないうちに怖いものが出来た。それは自分を照らし出そうとする慣れない光。視界の隅でちらつく、不確かな気紛れの存在。決して見つからないようにと己の全てを殺しながら、それでも自分は生きなければならなかった。


「…ぅ…っ」


突然、蹴りが止まった。
呻き声が漏れてしまったからだろうかと思い、どきりとした。けれど、訪れたのは静寂。いつもとは違うそれに、目をそっと開けると暗闇の中に父の姿がぼんやりと浮かんだ。自分を見下ろしているのであろうことはわかった。けれど、それだけではわからなかったこと。


「俺を…殺してみろよ」


父は泣いていた。
その言葉に、それまで緊張していた体からふっと力が抜けた。代わりに込み上げた涙は簡単に溢れた。体と口を抑えてぼろぼろと、声を殺して泣いた。
あぁ…父は死にたいのだ。
ごめんなさいと、心の中で何度も繰り返した。許されることも救われることもないのだということは、わかっている。けれどそれ以外に自分が出来ることはないのだ。自分のせいでもう誰も悲しい顔になどさせたくはないのに。そんなジレンマからは抜け出せなくて。もう、何もわからないけれど。
せめてどうか、救いを父に。








梅雨という季節は果たして必要なのだろうかと元親は疑問に思う。確かに雨は必要だし、この時期の紫陽花は綺麗だ。それは認める。けれど限度ってものがある。それに加えてこの湿気は何とも陰鬱で、気分さえ暗くさせるような気がして早くも今日何度目かの溜め息をついてしまった。


「うぜー雨うぜー」
「てめぇの方が遥かにうざいけど同感だ」
「…お前の毒舌は日増しに酷くなってるな」


はっきり言えば、雨が嫌いなのだ。制服は濡れるし洗濯物は乾かないし暗いしでうんざりしてしまう。その為、授業が面倒でサボったり適当に帰ったりする日も多くなった。まさに中弛みのような日々。
そんな最近、屋上で昼食が取れない為に元就を誘うことも無くなった。つまり、気にかけることも話しかけること自体も極端に減っていた。病院に行くことを頑なに拒んだ元就の、あの酷い痣や傷の手当ても、その後一度もすることはなかった。状態を聞いても、家に誘っても、元就はもう大丈夫だと言うだけだった。見る限りその様子に特に変わったところはなく、普段通りに人を寄せつけない雰囲気を纏っていた。何かあれば絶対に言えと釘をさしたし、元就の言葉を信じ、その事自体にも段々と触れなくなっていった。相変わらず笑った顔を見ることは無かったが、それもゆっくりでいいと思っていた。
それよりもとにかく今はこの苛々をどうにかしたい。そう思って、重たい腰を上げた。


「ちょっと散歩してくるわ」
「帰りにイチゴミルク」
「…好きだね、お前」
「とっとと行け」
「おー」


これは暗に帰って来いと言っているのだろうか…いや、ただいいようにパシられてるだけのような気がする。まぁとにかく、大きな伸びをしてから教室を出た。あと数分で午後の授業が始まるけれど、それもどうでも良かった。
廊下の窓から見た空はどんよりと暗くて、相変わらず雨は耳障りな音と共に降り続けていた。当たり前のように外には誰もいない。


「世界の終わりみてぇ」


一人言も虚しく響く。そうしてあてもなく適当に歩いていた筈の足は、自然に別棟の使われていない教室が並ぶフロアに向いていた。その一番奥の扉には見覚えがあった。図書室と書かれたプレートがぶら下がっており、誰も寄せ付けない雰囲気が漂っている。あの後、明智に詳しく聞けば、新たに大きな図書室が出来たことにより今はほとんど使われていない倉庫のようなものらしい。では何故元就はこんなところを知っていたのかと大変疑問ではあった。しかしよくよく考えてみればサボりには丁度いい場所ではないか。そう思い、少しの躊躇もなくガラッとドアを滑らせた。


「失礼しまー…す」


閉めきられたカーテンのせいで薄暗い室内。その後方にはずらり本棚が、半分から前方は長い机と椅子が並んでいる。その一角に、人が座っていた。正確には机に突っ伏して寝ているようだった。まさか人がいるとは思わず驚いたが、顔を上げたのが元就だったから尚更だった。似た状況に、初めて会話した時を思い出し、そう言えば今日はその姿を目にしていなかったような…と、そこまで考えてどきりとした。ぼーっとした視線をこちらに向けた元就と、目が合ったのは一瞬だった。


「元就?」


声をかけた瞬間、側に置いてあった本を持って立ち上がった。しかしその途端、左腹を庇うような仕草を見せた。まさか、と思った。あれから、何もないと思ってから半月は経っている。そんな明らかな痛みはもうないはずだ。


「ちょっと待て…まだ治ってねーのか」
「……」
「まさか…また、じゃねーだろうな」


立ったまま、それでも元就は何も言わなかった。まだ声さえ聞いていない。きっと、元就は悪くない。それを責めるのは勝手だった。けれど、腹立たしさは隠せない。


「何で言わねーんだよ」


その表情に、少しの変化も見られなかった。まるでその耳にこの声が届いていないように。まるでその瞳にこの姿が映っていないように。こちらに近づいてくる元就の、その存在の輪郭があまりにぼんやりとし過ぎていた。


「…関わるな」


すれ違いざまに、ただ一言。そう言って去って行く背を引き留める言葉は何も出て来てはくれなかった。それ以前に、動くことさえ出来なかった。










ぞっとした。死んだような人間を初めて見た。
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