難しいことが多すぎる愛



 私には家族がいない。

 父は愛人を連れ込んで、私と母を家から追い出し、今でもかつて私が住んでいたあの家に、あの女と一緒に住んでいる。母は、私とともにあばら家で暮らしていたけれど、民生委員の男と一緒になって、私をあばら家に独り残していなくなってしまった。
 私はこのぼろぼろの家で独り。
 月に十万円ほど、父が振り込んでくれるので、なんとか生活は出来るけれど、私たち家族はばらばらになってしまった。

 もとの暮らしは良い方だった。いや、かなり良かった。赤い屋根の、大きくて真っ白な家で、私は暮らしていた。
 父は建設会社の社長だから、お金がある家だったのだ。
 本当なら、今も私はここで――
 自転車を押しながら歩き、少し小高い坂の上にあるあの家を、そんなことを考えながら見上げた。

「みょうじ、なにしてんだ、そんなところで立ち止まって」

 突然、後ろから声を掛けられる。驚いて振り返ると、そこには自転車に跨った花宮くんがいた。

「なんだ、花宮くんか……ううん、別に。なんでもないよ。ただ、なんとなくぼーっとしてた」
「こんな道端でか?」
「こんな道端で」

 そう言うと、花宮はくすりと笑った。
 花宮くんは私の同級生、クラスメイトで、幼稚園の時からずっとクラスが一緒の、いわゆる幼馴染だ。
 今私たちが通っている霧崎第一高校は、東京23区外の郊外にある高校で、言ってしまえば、東京の中では田舎の方にある高校なのだが、だからこそ、私たちはここに通うしかなかった。
 どういうことかと言うと、私も花宮くんも貧乏暮らしだから、遠くの学校に通うほどのお金がなくて、近くの高校に通うしかないということだ。
 公立で、近所で、出来るだけお金がかからないところ。
 そんな理由で、私も花宮も、この進学校に進学した。

「どうせ、またあの家≠ナも眺めてたんだろ」

 花宮くんの言葉に、私はぎくりとする。

「ばれてたか」
「お前がわかりやすすぎるんだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「……戻りたいなんて、今更考えてないけどさ。それでも、思うところはあるよね」
「そうだろうな」
「花宮くんは、ない? そういうこと」
「ない。あんな酒と暴力しかないような父さんのことは、父さんだと思ってないし、母さんと二人になれてよかったと思ってるよ」
「そっか。そうだよね」
「……お前、生活は大丈夫なのか」

 花宮くんが言う。
 まあ、大丈夫か大丈夫じゃないかで言えば、大丈夫じゃないんだけど、なんとか暮らしては行けてるし……
 参考書は買わなくても、図書室にあるものを使っているし。
 新聞配達と居酒屋のバイトもしてるから、資格を取る際のお金なんかもなんとかなっている。
 そう説明すると、花宮くんは眉をしかめて言った。

「お前、いつか身体壊すぜ」

 そんなことを言われても……そうしないと、健全な高校生活を送れないのだから、仕方ないじゃない。

「そういう花宮くんも、部活のない土日はバイトしてるよね。休みがないのはお互い様だね」
「それは……」
「じゃ、私帰るね。今日は夜のバイトがないから、家で勉強しないと」
「ちょっと待て」
「なに?」

 自転車に跨った私を呼び止める花宮くんの方を振り返ると、花宮くんは珍しくもだもだして、なにかを口にすることを躊躇っているようだった。
 すると、決心したように一息吐いて、こう言った。

「いい場所がある。一緒に勉強しようぜ」
「え……まあ、いいけど……」
「教えてやる。どうせ、英語は今でも苦手なんだろ?」
「う……苦手です」
「じゃあ、着いて来いよ」

 そう言って自転車をこぎ始める花宮くん。
 あとを着いていくと、なかなかの坂道で、でも、どこか見覚えのある道で。坂を登りきった先にあったのは、小さな開けた小屋のような建物だった。町を一望できる。
 ここは確か、私と花宮くんが小さいころに発見した――

「秘密基地……」
「よく覚えてたな。そう。ここ、懐かしいだろ」
「うん、懐かしい。わあ、まだあったんだ」
「たまにここで勉強してんだ」
「へえ。いいね、ここなら。私の家も花宮くんの家も割と近いし。ちょうど中間くらいじゃない?」
「そうなんだよ。ほら、座れよ」
「うん。わー、ここでよくおままごとしたよね」
「お前に付き合ってな」
「そうそう。あの時はごめんね?」
「なんで謝るんだよ。俺は俺で、楽しかったんだぜ。おままごと」
「そうなんだ」

 テーブルを挟んで向かい合ってベンチに座り、教科書やらノートやらを広げる。
 そこで、花宮くんのノートから、ひらりと一枚の小さな紙が出てきて、地面に落ちた。拾い上げると、それは新聞に載っている将棋欄の切り抜きだった。

「あ、懐かしいね。将棋、まだやってるの?」
「ああ。最近また、暇つぶしに始めた」
「これ、もう解けたの?」
「当たり前だろ」
「さすが! ねえ、私にも教えてよ」
「勉強はどうしたんだよ?」
「将棋教えてもらったらすぐやる!」
「そうかよ。まあ、教えてやってもいいけど」
「やった! ありがとう」

 切り抜きを眺めながら、駒の運び方を花宮くんに教わる。さすが、頭いいな。本当なら、もっと良い高校に進学してたんだろうな。
 まあ、花宮くんは中学からバスケを始めていたし、霧崎第一がバスケの強豪校だから、ここを選んだって言うのもあるのかもしれないけれど。
 不幸中の幸い、じゃないけどさ。

「……とまあ、こんな感じだ」
「すごい! さすがだねえ」
「今更だけど、こういうのって自分で解かなきゃ意味なくねえか?」
「解いてもらったのを暗記するからいいの!」
「そうかよ」
「いいなあ、花宮くんは頭がよくって」
「お前だって、小さいころから出来がいいって言われてただろ」
「でも、本当に大きな世界で通用するほどの頭も度量も、私にはないよ。花宮くんみたいな人こそ、大きな舞台に立てるんだよ」
「そうとも限らねえだろ」
「どういうこと?」

 私が訊ねると、花宮くんは少し迷った後に、こう言った。

「俺は愛に囚われているからな」



(それとこれと、どんな関係が?)



20200402



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