鉛の王国


【3】
 自損事故の処理をしてから、結局電車とバスで軽井沢まで移動する。人混みにも空欄の多い田舎の時刻表にも殺意が湧いた。目的地に着く頃には夏だというのにすっかり陽が落ちていた。ロッジに着くなり真珠の恋人であるディーノがねぎらいを寄越す。
「災難だったな」
「そう思うなら、婚約者の馬鹿げた我儘ぐらい諌めてくれる」
そもそも結婚の報告に帰国したのだから避暑よりそちらを先に済ますべきだろう。
「悪い悪い、俺も久々にお前の顔が見たくなっちまってな」
ディーノから初めて真珠の名前が出たときには同名の別人を疑ったものだが、現実は小説などよりよほど悪辣だ。

「恭弥、やっと来たの」
 憤然と出迎える真珠に、恭弥は世にも不愉快そうに顔を歪めた。昼間助手席に座っていた顔より五年ほど年嵩の女がそこにいた。
「これ、ナミモリーヌのロールケーキ。食べれるか如何かは保証しないけどね」
「だから高速で来てねって言ったのに」
「帰省ラッシュでぎゅうぎゅうになった高速を走るなんて考えるだけで嫌だ。これであなたの“一生のお願い”は五度も叶えてるんだけど、いつ死ぬの? 早くしてくれる」
「下道通って来たって、どのあたりだ?」
 珍しく他人の言葉を遮るように訊いたディーノが、テーブルに地図を広げる。
「並盛を出て……八王子で高速から降りて、そこからずっと下道だったから、20号線を真っ直ぐ長野まで突っ切ってきた形になるんじゃないの」
「ああ、じゃあ私が昔住んでたあたりね。あのあたりには、面白い昔話があるのよ」
「自殺スポットの話なら聞き飽きたよ」
 あの場所で起こったことは恭弥にとって忌まわしく、一刻も早く忘れ去りたい出来事だ。だが恭弥が助手席に誰を乗せていたのか知らない真珠は暢気なほど楽しげに語る。

「川の底にはとても美しいお屋敷があって、とても寂しがり屋なんですって。だから水辺に近づいた人を連れて帰ろうとするのだけど、何人連れて帰っても屋敷のなかには誰も入れないの。だからその屋敷は永遠に満たされることなく、ずっと川の底でひとを待っているのよ」

 幼い日に栄川を眺めていた真珠の胸裡にも水底の屋敷があったのだろうか。
 反応を返さない恭弥に真珠は「一人で水辺に近づいたらいけないって、よく言われたわ」と締めくくった。

 話が一段落したのを見てか、ディーノからちょっとした食料の買い出しを頼まれる。車ならともかく歩きなら近所のコンビニが精々だ。メモを用意するくらいなら事故の連絡をしてから恭弥を待つ間に暇があっただろうが、ディーノとしては久々の再会に気を使ったつもりらしい。真珠が二つ返事で了承したので恭弥も不承不承続く。

 革靴で道端の小石を蹴りながら、「行き遅れずに済んだね」と真珠の結婚を祝った。悪癖を矯正せぬまま相手が見つかったことは奇跡に思える。
「昔からあなたは他人のものをとるのが好きだったけど、ここまでとはね」
「ディーノがあなたのものだったなんて知らなかったわ。恭弥、そういう趣味があったのね」
 打てば響くように返ってくる軽口に懐かしさを覚えるが、昔を思い返しても真珠とディーノの接点は恭弥であろうし、根本には真珠の悪癖がある。

「なんで帰って来たの」
 真珠は五年間、盆も正月も一度も並盛町に帰らなかった。郊外の大学に進んでも並盛町に住まい続けた十二年を思えば頑なさを感じるほどだった。結婚の報告という大義名分も怪しい。
 五年、恭弥は持ち物が目減りしない平穏を過ごした。その平穏が再び破られたのだと思えば嫌味の一つも言いたくなる。

「恭弥、今いくつ?」
「幾ら年増と言えど、そんなことも忘れるなら病院に掛かったら? 二十三だよ」
「そう。私、二十七よ。あんまり年が違う感じがしないわね」
 昼間助手席に乗っていたのはまさにーーまさに恭弥と同い年の真珠だっただろう。それと比べて変化ばかりに目が行くが、年嵩のほうの真珠も若作りなアジア人らしい顔立ちだ。
「ねえ、僕の質問に答えてくれる」

「ディーノ、よそに女がいるの」
 真珠は他人の前ならばこんなふうに自分の言いたいことだけのために口を開かず、社交性を見せるのだが、幼馴染の前では怠惰にもほどがある。
「ああ、そう……でも、マフィアでは浮気はご法度のはずじゃなかった」
 なお話を逸らすような真珠に、恭弥は苛立ちまぎれに吐き捨てた。
「まだ結婚前だもの。それに、大した問題じゃないのよ。私は知らないふり、ディーノはしていないふり。元々あの人は多情だし、よそに女がいるからって私を愛していないわけじゃない」
 全く問題ないことならこうして話題に上っていないはずだ。恋人を盲信する愚かさは真珠らしくない。
「それに、私たちは結婚するんですもの」
 勝気に言い放って、挑発的な視線で恭弥を捉える。その口元が皮肉っぽく弧を描いて微笑した。
私は欲しい椅子を手に入れたわ
 真珠はどんな我儘を叶えてやったときよりも燦々と目を輝かせていた。
「あなたはボンゴレの雲の守護者、私はボンゴレの最も強力な同盟相手であるキャバッローネのボスの妻。ボンゴレがある限り、私たちは永遠に顔を突き合わせるのよ」
「……あなたは、」
 恭弥の脳裏に、己に潜む願望が喋らせたのだと思しき化け物の声がする。

『あなたを連れてこうと思って』

「あなたには、僕を連れていくことも出来たんじゃないの」
 二十三歳の真珠を乗せて、少しの遠回りでどこまでいくつもりだったのだと己に問う。婚約者が実在しないロッジから引き離して、突然並盛町に帰ろうと言われれば、それが猫のように九生ある「一生のお願い」だったなら、従っていただろうか。

「私はあなたと一夜を共にしたいわけじゃない」
 そうしたければとっくにそうしていたのだと言わんばかりの声色にたじろぐ。雲雀は苦手な幼馴染として認識してた真珠を性対象として考えたことはなかった。
「あなたと離れたくなかったけど、あなたは“そういう人”ではなかったし、私が素直に『一緒に来て』と言ったところで結局並盛町に帰ったでしょうね。父さんがそうだったわ。馬鹿馬鹿しいと思わない」
 真珠の父の郷土愛に共感を持っていた恭弥は、悪し様に言われたことも、真珠と並盛町に"帰る"想像をしていたこともきまりが悪い。

「私は私のやり方で、あなたと添い遂げるわ」
 背を向けたまま、真珠はそう絞り出した。恭弥にはあまりに不毛な決意に思える。
「……真珠」
 女は誘引されたように足を止めた。
「嘘よ。……何、本気にしたの?」
 顔を逸らしたまま、終に真珠の表情は伺えなかった。


「はるばる来たのに買い出しありがとな、せめてコーヒーぐらいは俺に淹れさせてくれよ」
「良いけど……馬鹿みたいな失敗する前に大人しくしててくれない」
「ひっでえな相変わらず」
 ディーノが快活に笑って、ぶすっと不愉快そうな恭弥の肩を抱いた。
「私が一緒だから、大丈夫よ」
 かつて大人たちの前でそうだったように、真珠は朗らかに笑っている。何が大丈夫なのかと恭弥が疑問に思う間もなく、ディーノは慣れた手つきでコーヒーを淹れる。ほんの半年前恭弥の前でケトルをぶちまけ、コーヒーの粉まみれになって絨毯に転がっていたのが嘘のようだ。

「真珠、シュガーとミルク一つずつで良かったよな?」
「ええ」軽やかに頷いてから、含みのある視線を恭弥にくれる。
「胃に悪いから、ブラックはやめたの」
「ああ、そう」
 ディーノの傍らに侍り、買ってきた食材をしまう作業に勤しむ真珠はまるで優秀な秘書のようだった。
「……そう、そういうこと」


 避暑を終えて並盛町に帰り、実家に寄った折に真珠が結婚したのだと話せば、真珠を可愛がっていた母はたいそう喜んだ。女にしては決して饒舌なほうでない恭弥の母親だが、珍しく話に耳を傾ける息子を面白がってか、恭弥の知らない真珠の話をした。
 一見して恵まれている真珠だが、父親は娘のためと山間部の田舎に越しておきながら住み慣れた並盛町が忘れられずに恭弥の父親に毎週のように会いに来ていた。家を留守にすることが多ければ当然夫婦仲が良いはずもなく、真珠の母は積年の愚痴を溜め込んでいた。真珠は夫婦仲を取り繕うために必死で大人の顔色を読んで“良い子”として振る舞ってきたらしい。

 ここからは推測になるが、おそらく真珠にとって、自分より父親と一緒にいる時間が長い恭弥は妬ましい存在だっただろう。じきに父親への思慕が薄れるに従って、恭弥への妬みは恭弥が“円満な家庭で暮らしている”ことへの羨望に変わり、真珠は恭弥に成り変わりたいという気持ちから恭弥の物を欲しがるようになる。真珠にとっての恭弥は“自分が望んだ全て”であり、同時に“自分に手に入らない全て”だったからこそ、恭弥が自分に恋愛感情を持っていることを察していながら応えようとしなかった。
 幼い頃から他人の顔色を読んで生きて来た真珠は恭弥以外の人間に本心を晒すことは出来ず、また本心から信頼することも出来なくなっていた。真珠は恭弥に固執するあまり恭弥以外の人間に価値を見出せなくなっており、また自分にとって理想であり憧れの存在である“恭弥”を侵すことを避けるために、恭弥を求めることも出来ない。
 真珠にとっての慰めは恭弥の存在や繋がりを感じさせる物品・地位を得ることだけ。
 恭弥の傍にいながら決して恭弥自身を見てくれない。真珠が愛しているのは恭弥ではなく、“誰の顔色も窺うことなく屈託なく愛される子供時代”だったのだと、恭弥は察する。

 それはあたかも水面に映る虚像に恋する阿呆のようだ。そう苦笑しながら、そんな女を好きな自分に対する呆れと虚しさが体の奥底から湧き上がってくる。
 栄川の前を通りかかると、かつての真珠を思い出す。その水面を乱したくて、川辺に落ちていた釣り用の鉛の錘を拾って投げ入れた。紡錘形のそれは期待ほど飛沫を上げず、静かに沈んでいった。

 幼い頃、自分の無聊を慰めた絵本や玩具の全てを真珠は保管しているだろうと、恭弥は憶測する。
真珠が草壁ではなくディーノを選んだのは、実直な草壁を利用されれば相手が真珠であろうと許せなくなると知っていたからだ。

 あの川の底には美しい屋敷があって、その黒塗りの立派な門を潜ると紅白の花が咲き乱れて歓待し、青々とした庭草の果てにある厩舎は十分に肥えた家畜に満ちている。
 屋敷のなかで一人無聊を紛らわしている真珠の姿を思い浮かべて、恭弥は目を伏せた。


fin.

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