恋い焦がれ乞う恋


当初から、我々刀剣男士を武器として道具として扱うべきか、臣下として人として扱うべきか、迷いあぐねているような人だった。

人の肉体を得て、戦うことを請われたことに対し、
男士たちの中でも反応は分かれていた。
人の真似事をして喜ぶ者、戦いを厭う者、新たな生を得たとして尊ぶ者、持ち主に仕えようとする者、刀の本分に従おうとする者、審神者という存在に抗えず渋々従う者。

主はその小さな身で、個性万別の武者どもに精一杯礼を尽くし公正に采配を行って、上に立とうとしていた。

一目で気を張っているとわかるほどぴんと伸びた背中は弟たちを見ているようで、よくやっていると頭を撫でてやりたくなった。
はじめはただ、刀の本分として主人に仕え、弟たちに恥じぬように与えられた務めを果たそうとしていたのに、気づけば己の務め以上にいつでも主のことを案じ、慮ってしまうようになった。
妹扱いされるには年が行き過ぎているのだと撫でる手を跳ね除けられたのに、どうすれば支えになれるだろうかと考えている。

主のことを考えている時間が増え、胸まで痛くなる。
自覚できる変化はあからさまだった。

刀として前の主人に仕えたときに人の色恋沙汰は様々に見聞してきた。
歴代の主や弟たちを思うのとは違う、痛みも伴うあたたかい熱。
これがそうなのだ、と確信し、言葉にする。

近侍に任じられることも多く、
二人きりの本丸御殿で酒を片手に弱音を吐いてもらえるくらい、信頼を得ていた。
嫌われてはいないと知っていたから、
酌をしながら、軽やかに伝えてしまえた。

「主様。どうやら私はあなたに恋慕しているようなのです」

術に縛られているだけでなく、
心の底からあなたの味方だと伝えたくて。

「はぁ?」

ぽかんと口の開いた間抜けな表情は、中に何か放り込んで驚かせてみたい。あるいは無防備な唇を塞いでしまいたい、と思わせた。
気の張った主が初めて見せる貴重なもので、胸にじんわりと温かいものがこみ上げるのを再度自覚する。

「お慕いしています、と申し上げたのです」

臣下の分際で伴侶にと望むのは分不相応だろう。
だが、その心に少しでも寄り添うことを許してほしかった。

「……馬鹿を申すな」

主は聞いたことのないほど低い、掠れた声で、
これ以上ないほど眉間に皺を寄せて、苦虫を噛み砕いたように、十人並を自称する愛らしいかんばせが不美人になるほど顔を顰めて、
一期一振の想いをこなごなに否定した。

「お前たちは、刀だろう。今は人間の体を得ているが、その魂は刀に宿ったのだから本質は刀のはず。それなら持ち主を慕うのは恋慕とは言わない。
色恋まで人間の真似事をしなくていい」

思えば、これまで主が一期一振の言動を喜ばなかったことはなかった。
そこにいるだけで目の保養だと満足げに頷き、勤勉に務めを果たせば信を置かれ、戦いぶりでも度々誉れを授かり、遠征帰りに花を差し出せば綻ぶような笑みを見せた。
好意は好意で返されると無意識の内に信じていたので、咄嗟に言葉が出なかった。

「……こんな未熟な主を、慕ってくれるのは、嬉しい」

わざわざ最後に言葉を添える気遣いをする余裕があるのに、想いの形を真っ向から否定する。
そもそも想いの所在を信じてもらえないなんて。

「いいえ、私は……」
「心というのは人でさえ間違うことがある。お前が勘違いしても仕方ない。
ま、いずれ笑い話になるさ。今日は酒を飲んで忘れよう。今度は私が酌をしてやる」

一期一振が人の心身を得た期間よりも、主が人として生きている年月のほうがたしかに長い。
不正解だと断じられればそれ以上の否定材料は見つからなかった。
そもそもただ伝えたかっただけなのだ。喜んでもらえると思っていたので、こうも拒絶されるとは予想外だった。
主の気分を害してしまったと落ち込むが、頭を撫でられ注がれた酒を煽れば一時は気が晴れたので、その日は諦めることにした。

 *
 *
 *

「主、本日も、お慕いしております」
「冗談はやめてくれ」
「冗談ではないんですが」

人前で口説くような分別のないことはしない。
弟たちの前ではいつだって良い兄でありたいという気持ちもあるし、
この狭い中に男ばかりがひしめいている本陣で、誰にとってもなんらかの意味で特別で、逆らうことのできない主という存在を、唯人のように恋い慕っていると宣言するのは、暗黙の了解を破る禁忌になる気がしていた。主を窮地に追い込みたいわけではない。

他の者に悟られぬよう、人目のあるところでは澄ました態度を心がけた。
多少浮ついていると指摘されることがあるが、その程度ならなんとでもごまかせる。
……頼もしい弟たちには何もかも見通されているような気もするが。

他の誰に見せるわけでもない、何に使うでもない、膨らんだ心。
二人きりなら遠慮なく告げる。
時には縁側でお茶を飲みながら、時には杯を傾けながら、時には壁際に迫りながら。

「お前たちが私に逆らえないのは強制力を持った術のせいだろう。自ら仕える主を選べないのは哀れなことだ。刀は持ち主を特別の存在と見なす。その本質を利用して私が主として居座ってるわけだが、同じ特別だからと混同しているんだな。
主を選べないから、主になった者にできるかぎりの忠義を尽くしてくれるのは嬉しいよ。臣下の鑑のような男だ。
敬意を憧れと呼ぶとして、それを異性だからといって恋情と呼ぶのは間違っている。お前は暗示にかかっているだけだよ」

そうだろうか。

うなじに滴る汗、濡れた唇を気づけば目で追っている。
見ていられなくて目を背ける。
笑顔を見ているだけで胸の奥があたたかくなる。
声を聞くだけで物を落とすほど動揺する。
言葉一つで頬の緩むのがこらえられなくなる。
業火に焼かれる悪夢から醒めても主を想えば息をつけた。

他の男に向けた笑みまで独占したいと暗い気持ちを抱く。
脳裏が真白に染まるほどの劣情に耽ったこともある。
抱きしめられる弟たちに嫉妬する日がくるとは思わなかった。
くちづけたい。組み敷いて奪ってしまいたいという気持ちと、心なく体を接したいわけではないという気持ちがせめぎあっては、傷つけるようなことはできないと理性が勝る。

これが恋でなければなんだろう。

逆らうことのできない身の上とはいえ、
機械のように、絡繰り人形のように与えられた役割だけを淡々とこなすこともできる。
喜ばせたい、もっと笑顔にさせたい、と絶えず希っているのに。

「……お前は刀として存在してから数百年経つといっても、人の身を得てから幾月も経っていないだろう?
生まれたばかりの雛が親についていくようなものだ。
人間の子供はな、幼少の頃必ずと言っていいほど“お父さんと結婚する”“お母さんと結婚する”などと言うんだ。お前も一緒だ。人の成長を一度に体験したようなものだろう」

想いを告げれば、いつも手を替え品を替えの様々な説明によって宥められる。
どういう形であれ、一期一振の想いと向き合ってくれるのならば、言葉遊びのようなやりとりも悪くはない。

「恐れながら、主を母のように思ったことはありません」
「そうか……」
「付喪神とは所詮妖。しかし化け物が人を好いてはおかしいでしょうか。
あなたを想うと夜も眠れなくなるのです。触れたいという想いは思慕ではないのですか」

人間の欲とは際限がない。
最初はただ知ってほしかっただけだった。
それが、拒絶されたことによって、信じてほしい、受け入れてほしいという欲に変わった。
それから愛するということの可能性に気づいた。
その頬に触れたい。その曲線を指で辿りたい。私によって変わる表情をずっと見ていたい。知らないあなたを暴きたい。同じように想われてみたい――。

「い、今は、人間の男の体だものな。しょうがない、しょうがない! それは生理的反応というものだ。
男は大変だと聞く。この本陣には他に女がいないから特別なものだと勘違いしてしまうかもしれないが……。それはただの欲だ。食欲のようなものだ。ここに他に女がいないから、消去法で私に目が行くだけだ。お前が人のように人を恋慕うというなら、お前のような男は、外で誰にでも声をかけてみればいい。いくらでも好い人が見つかるはずだ。試しに遠征先で声をかけてみればいい。……歴史を変えない程度に」
「……わかりました」

 *
 *
 *

「試してみたのですが、やはり主とは違うようです」
「試したのか……」

そこまで言うなら話しかけるくらいはしてみよう、と助言に従った結果であるのに、主はあからさまに暗い顔をした。
この気持ちがどうすれば届くのか、半ば意地になっている己がいた。

「百歩、いや千歩譲って、それが人の思慕に似た気持ちだとして、それはお前、初恋というやつだ。
初恋というのは叶わないものなんだ。叶わないほうが美しいらしい。思い出になれば私も少しは美化されることだろう」
「今でも十分お美しいですが」
「……それは身内贔屓だろう。私は、お前たちに主と呼んでもらえるのに相応しい存在に近づきたくて、多少なりとも見かけをよくして言動にも気をつけているつもりだ。だが、こんなのはハリボテだ。中身は十把一からげの怠惰な女だ。お前が慕った女は空想上の存在で、本当はどこにもいない」

冷静にあしらい、理屈を並べているようでいて、だんだん理屈がもつれて、ほだされていく。
物だ、術の影響だと言っていたのが、人間と同じだと認められ、男なのだと認められ……。
たとえば今は、主としてじゃなくただ一人の女を見てくれと言われているようにしか聞こえない。

「あなたはここに居られます」

「違う。そうじゃない。恋慕だのなんだのを口実にたいしたことない女だと当たり前のことを暴かれ、失望されたら、その後はどうしろと言うんだ。私から信頼する近侍を奪わないでくれ……」

なぜこの想いが主から一期一振を奪うことになるのだろう。
結局、主は一期一振の想いを認めたくなくて、言い訳を探しているだけだ。
反論できなくて説く道を変えるほど、逃げ道を失っていく。
多様な理屈で反論しているようで、その防波堤が一つ二つと崩れていく。

これまで『それは思慕でない』と想いそのものを否定して、拒絶されたことはあっても、『男として見れない』だとか『男として好みでない』『不快だ』など、恋愛対象外だと断じられて拒絶されたことはない。
嫌われてはいないことも、鑑賞に堪えると思われていることも、知っている。
あしらうのが面倒だからといって近侍を外されるわけでもなかった。
主は本心から一期一振を拒絶することはできないのだ。
それならば、この想いを認めてさえもらえれば――。

「主の優柔不断なところも絆されやすいところも怠惰なところも意外と短気で子供っぽいところも、存じております。存じた上で申しておるのです」

問答を重ねて、自問自答もして、じっくり観察して、月日を経るほど、新たなことを知った。
照れた表情や慌てた表情は想いを告げなければ見えなかった。
主が美しいばかりの人でないことも、高潔なばかりでないことも、怠惰な日があることも、弱音を吐くことも、子供っぽい面があることも、わかった。
熱は冷めず、想いは深まるばかりだ。
知れば知るほど夢中になっていく。確信は強まるばかりだった。

「こんな気持ちがあったことを知らなかったと、何度でもそんな発見をしているんです。
あなたの焦りや戸惑いにも私と同じように初めての感情が宿っていればいいのに、と思ってしまうんです」

視線が絡む。
潤んだ瞳は躊躇うようでいて、何かを期待しているようでもあった。

「私は、私はお前たちの主として、平等に接したいんだ。一人に心を傾けることなんてできないし、一つしかない体も明け渡せない。私はお前に何もしてやれない」
「いつ折れるとも知れない身なれば、ただこの想いは本物であると認めていただきたいのです。
いっそこの心を取り出してお見せできるなら、そうしたい」

たしかにここにあるもの否定され続けるのはもどかしく、胸の底に重い澱みが溜まりそうだった。
澱みから早く解放されて、楽になりたいという思いがよぎる。
胸の痛みだけ取り出すことができたらいいのに。
心は、その字のとおり心の臓にでも宿っているのだろうか。
心臓を取り出せば、ことあるごとに痛いほど高鳴る鼓動の程度くらいは知ってもらえるだろうか。
……なんて、馬鹿馬鹿しい妄言が意識を掠め、ふと、思いつく。

「想いの丈をご覧に入れる方法、あるやもしれません」
「何?」
「思えば、道具は自ら壊れることはありません。人に使われて、あるいは壊されて、壊れるのです」
「え、あ、うん。そうだな」

言いたいことが掴めないのか、先を促すような沈黙が下りる。

「同じように、臣下が腹を切る場合も決まっております。命じられたときか、己を恥じたとき、使命に殉ずるときでしょう」
「そう、かな……?」
「そのどれでもないとしたら」

脇に置いていた鞘から刀身を取り出す。
弛まず研がれ、鍛錬を重ね、霊力を高められ。
我ながら見るからに切れ味の鋭い太刀だ。
短刀の名手、吉光の手掛けた唯一の太刀ーー。
刃先を首筋に当てると、触れるか触れないかというところでもう血が滲む。

「刀が恋をしないと言うなら、恋い焦がれ自滅までした刀を笑ってください。主を守るためでもなく、ただ浅ましい己の恋情を明らかにしたいがための行いです。
この気持ちが人の身を得たことによるまやかしで勘違いだと言うなら、釣り合う痛みはこれほどだと知ってください」

他に示す方法がないのなら、ひけらかすことができないのなら、目に焼き付けて、忘れられない光景になればいい。
この真心を二度と疑わぬように。唯一無二になれるように。

主はただ目を瞠き、息を詰めていた。
少しでも手元をずらせばこの首は斬れる。
青ざめた顔と視線を交えれば、本気が伝わったのか、その瞳を潤ませているのは怯えだけではないとわかる。こちらに見惚れているようにさえ見える。
嗚呼、なんて非道い御人か。
それだけで、果てのない充足感を得る。

ーー刀剣男士にも痛覚はある。人よりは戦時の恐れが薄く、手入れすればたいていの傷は綺麗に治ってしまうが、自らの首を斬ろうとするのはさすがに初めてだ。
介錯はない。だからこそ生き延びてしまうかもしれない。
手入れ部屋は空いているはずだ。運よければ生きているだろう。
手塩をかけて育てていただいた、戦力としての己は主の所有物である。保守されるなら、それでもいい。燃え盛る炎の中に還るよりは、よほど。

ただ、ほんとうにこうしてもかまわないというほどの熱だと、知ってほしかったのだ。
壊れてしまうものもあるかもしれない。癒えないものもあるかもしれない。けれど、新たに築けるものもあるだろう。

御託は終わりだ。言いたいことを言い終え、実行の時となる。
自分が今、どんな顔をしているかわかる。
嬉しくて微笑んでいるのだ。

「馬鹿、やめろ! 嫌だ。止まれ、"止まってくれ、一期一振”!!」

喉元を貫くはずだった刀――それを握る腕が、ぴたりと動かなくなった。
――言霊。
審神者という存在は喚び出した刀剣男士が絶対に逆らえない言葉で命じることができる。
この主が使っているところは初めて見る。
強制力で従わせるのではなく、信頼関係で男士を動かそうとしていた人だったから。

不慣れさと状況による動揺で、うまく言葉に力が乗らなかったらしい。
拘束は不完全で、数秒の効果にしかならない。
けれどその数秒は確かな隙となり、細い体が飛びかかってきた。

「なっ……!」

衝撃で握っていた刀がそのまま己の首に突き刺ささりそうになったが、主が倒れこみながら刃を素手で掬い掴もうとしているのだとわかり、咄嗟に刃を捨てた。
縺れるように倒れこみながら、こぼれた刀身がその柔肌を傷つけることがないようにと必死で主の身の安全を確保する。二重の意味で危なかった。

「――お怪我はありませんか!?」

無理やり刃を握り込めば手のひらが軽く切れるでは済まないだろう。
逸れた刃が目や他の部位に触れていた可能性すらある。
主は刀剣男士どもと違い、手入れ部屋で跡形もなく治すというわけにもいかないのだ。
その傷を作ったのが一期一振そのものだとなれば、生涯悔やんでも悔やみきれない。

「刃物を持っている相手に飛びかかるだなんて、なんて無茶をっ!」
「うるさい! 私も命懸けだ!」

どこか切れたところがないか、目と手で確認していく。
まず手のひら。それから腕、頬、足、着物の布地……。
有無を言わさぬまま確認を終えた。
白い肌には赤い線が見当たらず、ただ滑らかなままだとわかってようやく息をついた。

「……本当に、心の臓が止まるかと思いました。外から見た限りで傷は見当たりませんが、どこか切れたりはしていませんか? 痛いところは?」

傅いて両手を取り、御身を案じる。
すると主は堪忍袋でも切れたように大きく身じろぎして、手を跳ね除ける。

「うがああああ!! 一期一振のっ、馬鹿っ!!!」

駄々をこねる子供のような主を見るのも初めてで、呆気に取られる。
「なんで急にいつもどおりなんだ」
ぼろぼろと泣きながら、暴れた。
バタバタと叩かれるし、殴っているつもりのようだし、頬を抓られるし、思いきり引っ掻かれる。
「馬鹿、馬鹿」と唱えながら、時折鼻をすすっているようだ。
兄弟喧嘩でもここまでされたことはない。途方にくれる。
怪我を案じたばかりということもあり、抵抗によりまた何かあってはいけないので甘んじてされるがままになった。多少の痛みは甲斐性というものだろう。

主は一期一振をひととおり痛めつけると少し気が済んだようで、嗚咽も引き、言語によるやりとりが可能となった。
ぐずるように一期一振の服の裾を掴んで、耳元でのたまう。

「もう二度と、馬鹿なことを、しないでくれ。それこそ心の臓が止まるかと思った。
私が、信じなかったのが悪いのかもしれないけど、お前の気持ちを否定して、ごまかし続けていたのがいけないのかもしれないけど、……信じるから。信じてちゃんと、できる範囲で応えるから、信じた瞬間に喪わせるようなこと、しないで……」

縋るような弱々しい声を聞きながら、甘い夢を見ている心地になった。

ふと、喪われようとしたのが他の男士でも彼女は同じ反応をしただろうかという問いが意識をよぎる。
たとえば他の誰に対してでも、こんなふうに涙に濡れたのかもしれない。
一期一振だから特別だった、と自惚れることはできなかった。
ああそうか。きっとこれは主が抱いたのと同じ種類の疑いだ。
自分だけが特別かどうか。取り巻く状況や条件が変わっても不変かどうか。
途方もない望みを相手に抱いて、目にも見えないものを測って、だからこそ疑う。不安に駆られて、信じられなくなる。

「同じ、なんですね……」

すとんと腑に落ちた言葉に、狂おしいほどの恋情が僅かに慰められるようだった。
届かぬ思いも焦れるのに、届いたら届いただけ嬉しくて、狂おしくて、苦しい。
あまりの途方のなさに苦笑が漏れる。
それでもこの心の一片でも垣間見せることができたのなら、この狂言も報われただろう。

「命懸けだったんだ。命懸けって言うのは、命を懸けてもお前が惜しいってことだよ。わかってくれ。
人でないものにどこまで心を許していいのか、今だって怖い。
私の居場所はもうこの本陣にしかないから、何も失いたくないのに」

そっと愛しい人の髪を撫で、抱きとめる。
今はただ、恋慕した相手の「信じる」という言質に浸っていたかった。
願わくば腕の中のこの方が、丸ごと自分のものになればいいのにと乞う。

「あなたに何かを失わせるつもりはありません。ただ与えたいのです。
だからどうか、御覚悟ください」
「うん……」

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