36.当惑 -- 知らなかったことばかり

 ライブが終わって数時間後、待ち合わせ場所で合流した彼方は口を開くなり遥を手放しで褒めた。

「遥、すっげー よかったよ! 俺感動した」

 言われ慣れた稚拙な感想だったが、遥は今までもらったどんな賞賛よりも嬉しく感じた。届けたい人に歌を届けられた喜びがある。ありがと と短い言葉を返した。

「つーかお前、『私』って言わないの? 桃桜の家では言ってたじゃん」
「あれは礼儀だろ。むずがゆくて嫌なんだよ」
「女らしくするのも似合うと思うけど」
「んなわけねーだろ」

 茶化されたような 居心地悪い気分になって、彼方は話題を変えることにした。

「今日のライブさ、一曲だけ俺が聴いたことある曲だったな」
「はぁ? どれ」
「えっと3番目の曲」
「『deep aqua』? たしかにあれは一番古い曲だけど、彼方は聴いたことないはずだ。お前がいなくなった年の文化祭で初披露した曲だから」

 遥にとっては思い入れの深い曲だ。間違いない。
 ずっと彼方に届けたくて、今日ようやくそれが叶ったと思っていた。
 しかしながた、彼方が"知っている"と感じたこともたしかなのだった。

「――そうだ。向こうの世界で、口ずさんでるって指摘されたんだ」
「あの曲を?」
「そう。"水溜りの海から"っていうの、間違いない」
「いや、間違いないとか言われても困るって。そりゃ結構歌ってる曲だけど、お前はそれが届かないとこにいたじゃん」

 噛み合ない話の中で、彼方はもう一つの違和感を思い出す。

「そういえば遥って歌ってるときオーラ飛ばしてるんだよな」
「はぁ? オーラって念の?」
「そう。凝で見たんだ。練に近いのかな。歌声に乗る感じでさー」
「オーラねぇ。2年以上座禅してても何も感じないんだけど……」
「座禅してんの?」
「……万が一念を習得できたら同じ現象を引き起こせるかと思ったんだよ」
「じゃあそのせいもあるかもな。歌がオーラに乗って世界を飛び越えた、とか。ようするに遥には念の素質がある」

 根拠になりそうな材料を並べられても、そこから正しい結論を導き出すことは難しく、憶測の域を出ない。分析はずっと香恋に任せきりだった。
 元々オーラというのは身体エネルギーだから、才能ある歌声に宿っていてもおかしいことじゃない。少なくとも向こうの世界では、達人の制作物に念が宿るとか、無意識に念を使う占い師も存在する。
 才能がたった一人へ"届けたい"という想いに乗って形になったのだ。

「実感ねーなぁ。へたに座禅組むよりも歌ってるときのほうが集中はしてるかもしれないけど」
「俺にもよくわかんねー」

 そんな話をしながら、目的地に到着した。
 遥の住居は一人で高校生が住むには立派なマンションだった。
 彼方はエントランスでカードキーをかざして中に入る遥の後に続いた。

 遥は適当に座れ と言って飲み物を用意しに行ったから、彼方は部屋の中を物色し始める。
 物が多いわりに整理整頓されて片付いている部屋だ。CDやギター、音楽雑誌が以前よりもかさばっている。

 本棚では『HUNTER×HUNTER』の漫画がまず目に入った。
 昔持っていた漫画は多く手放してしまったようだが、それだけは全巻揃っていた。
 手に取ってぱらぱらとめくってみると、知っている人物・知っている場所が所々に出てきて気持ち悪かった。自分たちがこの中にいたというよりは現実を絵に記されたような感じがした。当然だが、香恋の姿はない。
 彼方は本を読むのがとても遅いのだが、続きを読むのが今日来た口実ということもあり、読み進めることにした。
 ヨークシン編は飛ばして、グリードアイランド編から 記憶をなぞるようにページをめくる。爆弾魔を見て、そうそうこんな話だった と思ったりした。
 そしてキメラアント編が始まって、彼方の表情が変わった。

 読み終わったとき 何時間経っていたのだろう。
 遥はベッドに腰掛けて雑誌を読んでいて、顔を上げた彼方と目が合った。

「……大丈夫?」
「遥……俺、やっぱり帰るわ」

 声が震える。なんだよこの展開は、それまでと危険度の桁が全然違う。
 主人公だから乗り越えられるだろうとか、主人公たちの近くでも安全だろう・どうにかできるだろうという安心感を微塵も抱けなかった。
 むしろ主人公たちが無事でも、その傍にいる人間が無事とは限らない。
 こんな状況に香恋が入るなんて考えると寒気では済まなかった。

「どこに?」
「向こうに。もしこのとき香恋があいつらと一緒にいたら死ぬかもしれない。伝えなきゃ……俺が香恋を守らなきゃ」

 自分に対してなら危険を危険だと思わなかっただろうけれど、香恋は違う。
 かつて力があったからって今使わないのなら意味がない。

「待て。どうせいつか知るだろうと思って目の前で読ませたけど、ゴンやキルアは主人公たちなんだから桃桜もどうにかなるだろ。簡単に帰るとか言うな」
「香恋はこの漫画の登場人物じゃないんだ。予定が載ってないし、保証がない」

 主人公たちは予定も保証も知らない。自分の身を守るので精一杯じゃないか。
「いいから落ち着け。そんななさけない顔すんな。
お前らがいなくなった時点で『HUNTER×HUNTER』はキメラアント編に入ってた。
だから桃桜は多分知ってる。その上でそこに残ったし、お前にも言わなかったんだ。何か対策も立ててるかもしれない」
「そう、かな……」

 たしかに香恋は彼方よりもずっと先を見据えて動いていた。ヨークシン編でキルアたちを守るために一つ念能力を作っていたくらいだ。同じようにすでに布石を敷いているのかもしれない。

「万が一のことがあってもあいつは自分で選んだんだろ?
それなら もうどうにもできないことだし、俺たちの関与することじゃない。」

 どうにもできない……たしかに、香恋はもう自らの能力でこの世界に帰ってくることができない。彼方を帰してしまったからだ。
 別れ際の香恋の様子を思い起こす。帰れる嬉しさと素性の話にばかり気を取られてしまって何か見落としていないか。あの泣き出しそうな顔は 別れのせいだけじゃなかった?

「俺……もうしばらく向こうに残ってればよかったのかな?」

 遥は盛大な溜め息をついた。

「簡単にそんなこと言うな。お前がいれば全部うまくいくのか? そりゃ強いのはわかるけど、知らないことに変わりないし……だからこそ桃桜はお前をこっちに帰したんじゃないのか」
「――どういう意味?」
「彼方はキメラアントと戦いたがりそうだな って意味」

 それは図星だ。"守りたい"は戦うことを前提としていた。無意識で"戦いたい"にとても近しい。
 "俺なら" と疼くのは、強敵を見て、挑んでみたい・実力を測ってみたいと思う意識があるからだった。

「桃桜は戦いを避けるように考えそうだけど、彼方は馬鹿正直に向かっていきそう。お前でも、この"王"に勝てるかなんてわかんねーよ。負けたら死ぬし」

「なぁ、もしかして香恋はそれで俺を帰したのかな?」
「かもな。やたら強引な取引だったみたいだし」
「……俺は本当に何も知らなかったんだな」

 一緒にいたときも、別行動しているときも 自分中心のことしか考えられなかった。大丈夫という言葉を妄信して、香恋のことも楽観視していた。

「桃桜はわざわざお前を帰したんだから、また戻ってきてほしいなんて思ってないし、むしろ迷惑かもしれない」
「わかってる。俺が香恋に無事でいてほしいんだ。もう一回"友達"をやり直したい」

 隠し事のたくさんあった関係。利用して利用された関係は、きっと対等ではなかった。とても大切な親友だったのに。このままじゃきっと一生後悔する。

「あのさ、俺は2年半 待ってた。お前が帰ってきてくれて嬉しい。お前は?」
「俺も、帰ってこれて、遥に会えて 嬉しい。またお前の歌が聴けてよかった」
「――今戻ったら、お前の願いは全部ただの無い物ねだりだ。いいか、"何もしない"のも勇気だ」

 こっちいたとき、少なからずどこか強さのある場所に行きたいと願っていた。
 向こうにいたとき、帰りたくてたまらなかった。
 ようやくこっちに帰ってきたら、また向こうに行きたくなるのか? そしてまた恋い焦がれて……。
 それならたしかに隣の芝が青く見えるのと同じかもしれない。
 なんのために 何をしたいのか。選択はこんなにも難しい。

「――ごめん」

 迷ってばかりだと思った。帰ってくるときも、苦渋の決断をしたつもりだったのに こんなにも脆く崩れる。

「それでもよく考えて、どうしても行きたいって言うなら、俺の精孔を開けていけ」
「……は?」

 遥の言葉に彼方は耳を疑う。

「素質があるって彼方が言ったんだろ」
「そりゃ言ったけど……歌ってるときにオーラが漏れると抉じ開けるのは違うだろ。並大抵の適性じゃ無理だし、冗談じゃなく大抵死ぬぞ。修行したほうがよっぽどましだ」
「わかってる。でも座禅じゃ何も感じ取れなかったし、悠長なことは言ってらんねー。俺は何系だと思う?」
「具現化系」

 彼方は即答する。

「……だよな、自分でもそう思う。あってるかはわかんねーけど、もし具現化系なら帰ってくるための能力、作れるかもしれないよな」

 香恋が作った能力は扉を具現化するものだった。
 元々が操作系寄りの特質系だから、かなり無理をしたと思われる。
 たしかに 具現化系の能力者で、歌っているときの遥のオーラ量ならあれに値するくらいの能力を作れるかもしれない。

「でも いくら歌が届いたからって能力まで届くかは……」
「や、だから俺も向こうに行くって話だよ。帰って来れるかどうかは保証出来ないけど、とりあえず向こうには行けるよな? お前一人で行ったら戻ってくる可能性めちゃくちゃ低いだろ」
「そうだけど……なんで遥がそこまですんの?」
「しかたねーだろ。お前も馬鹿だが、俺も馬鹿なんだよ」

 彼方はわからないという顔をする。

「……彼方さ、なんでこっちに帰ってきたかったの? 道場継ぐため?」
「それもあるけど、俺じゃなくても 門下生がいれば潰れることはないだろうからあんまり……」
「じゃあなんで?」
「えーっと、遥に会いたかったから?」

 その答えを聞くと、遥は彼方を抱きしめた。

「なっ、なに!?」
「うるせぇ。趣味の悪さは自分が一番自覚してる」
「はぁ?」
「好きだって言ってんだよ! 強くても弱くても馬鹿でも無鉄砲でも優柔不断でも、俺は天宮彼方が好きだ」

 いや言ってないだろ、とかいうことがどうでもよくなるくらい、彼方は唖然とした。
 それがどういう種類の"好き"なのかよくわかる。彼方も同じ気持ちを持っているからだ。
 保証も約束もなく突然わかたれても 想わない日のなかった相手に、こうして巡り合ったのだ。
「俺も遥が好きだ」と応えれば「知ってる」と返される。伝わる体温に泣きそうになった。その体勢のまま、遥は語る。

「今はとにかく落ち着け。どっちにしろヨークシン編からキメラアント編まで……たぶん半年はあるんだから、そのくらいは迷っててもいい。
桃桜とは別の人生だし、こっちにいることにするっていうならきっとそっちのほうが正解だ。
でも もしまた自己満足でも『HUNTER×HUNTER』の世界に行くことにするなら俺も行く。最悪向こうで一生終えるかもしれないって思っとけ。自分だけじゃなく俺の人生も背負って考えてみろ」
「なんで……そんな、俺に決めさせてくれんの?」

 遥がこちらで成功しているのはよくわかる。
 家族も、仕事で世話になっている人も、バンドを組んでいる仲間も、たくさんのファンもいるだろう。
 今のところ何不自由ない人生に見える。
 ――それがどんなに空虚なものだったか、彼方は知らない。

「行くなって言ってまた黙って突然いなくなられるよりましだから。
俺はお前を選ぶ。迷ってもいいんだ、お前が間違えるなら一緒に間違えてやるよ」

 ひどい殺し文句だ。
 "全部"を選んでもいいんだろうか。遥がいて、香恋がいて、強さのある世界。
 彼方は遥"に守られている"と感じた。

「でも、本当によく考えろよ。
桃桜を助けるつもりなら、自分も俺も桃桜も余裕で守れるくらい強くなれ。
無駄になるかもしれないし、もっと別の危険があるかもしれないっていうのも考えておけよ。
俺も一応活動停止の準備と念の修行はしておく」
「……わかった。遥、ありがとう」

 まだ見通しは立たない。
 ただ先ほどの絶望的な状況が軽減されたような気がするから不思議だ。
 遥は子供に対するみたいに、彼方の頭を撫でた。

「彼方は自分のためにしか強くなったことないんだよな?
結果だけ見ると、桃桜は最後にお前に目標を残してくれたな」

 あぁ、そうか……。
 あの虚しさは帰るという目標と、強くなることが手段として噛み合わなかったせいだったんだ。
 こっちの世界にいた頃は強くなることだけが唯一の目標だったから迷わなかったけれど、向こうではもっと優先順位の高い目標ができた。

 今は "行く"と"行かない"の前に、強くならなくてはいけない と切実に思った。

 強く、強くなろう。
 自分のために、自分のためだけでなくするために。
 頑なな強さではなく、すべてしなやかに受け止められるくらい、
 このいとしい人が懸けてくれた想いにふさわしくなれるくらい 強くなろう と 思った。


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