33.追憶 -- 塗りつぶした過去

 取引が成立してから、ふたりは一度街に下りた。
 最後くらいまともな旅行をしていきなよ、と香恋が言ったからだ。
 彼方はどうでもよかったが、最後だから全部香恋に任せることにした。

 前髪以外伸びるままに放置したり雑に切り落としたりしていた彼方を美容院に連れていって、香恋はその間に衣料と装飾品を選んだ。
 日常的に濃厚なオーラを纏っているせいか、傷を補正するのと相性がいいせいか、彼方の髪は思ったよりもしなやかだった。
 美容院から解放された彼方は香恋に紙袋を渡されてデパートのトイレに押し込まれ、修行でボロボロになっていた服を脱いで、紙袋の中身に着替える。

 着てみて、なんとなく今まで違うことに気づいた。
 "かっこよさ"がコンセプトなのは変わらないが、今回香恋が選んだのは男物ではなくレディースブランドだった。
 体格のよさを適度にごまかし、背の高さが映える、モデルのような格好で、よく似合っている。
 中性的とはいえ元々整った顔はしているし、向こうの世界にいた頃よりも少し長く艶の出た髪も女らしさに僅かな加勢をした。

 出て来た彼方を見て香恋は満足げに頷く。
 こうやって毛並みを整えてちゃんとした格好をすれば印象は全然変わる。
 ――もう騎士はいらない。
 ――魔女はせめてお姫様にお城に行くための魔法をかけて終わろうと思った。

「そういえばこっちの世界のカネ、俺はもういらねーから香恋にやるよ。通帳とカードとハンター証」
「うーん……お金はあって困らないし、いらないなら貰っておこうかな。
全部っていうのもなんだから、持てる限りで宝石に替えよっか。向こうでいつか入り用になるかもしれない、あって困らないしねー。ハンター証は他人じゃ意味ないし、せっかくだから記念に持って帰りなよ」
「記念ねー……かさばるもんでもないし、まぁそうするか。宝石……遥にでもやるかな」

 男が宝石で喜ぶかどうかはともかく、安物ではない。
 通帳を香恋に見せると、どれだけ賞金首を狩ったんだと訊かれた。
 B級やC級が多かったから と 答える。
 もっとまともにハンター協会に顔向けできる生活をしていたら高名になっていたかもしれない。

 夜は金に糸目をつけず最上級のホテルに泊まり、最高の夜景で最高の食事をした。
 試験後の別れも取引も何もなかったように、ありふれた会話が楽しく弾む。

 香恋はまるで憑き物が落ちたように、向こうの世界にいた頃のようににこにこと無邪気に笑った。
 彼方は今までのことが全部嘘で、幻でも見ていたんじゃないかと錯覚しそうになった。
 せめて今だけは、親友と笑い合いたい。

「そういえば彼方ちゃんの能力ってどんなの?」
「基礎的な使い方しかしてねーな。拳や脚 強化したり、拳圧飛ばしたり、自分の怪我治したり」
「強化系だし、体術が基本なんだからそれで十分かもねー。向こうの世界に戻ったら放出系の念は使おうとしちゃダメだよ?」
「わかってるって。気をつける。向こうでも纏・練・絶・凝くらいはできたよな?」
「練や凝は気をつけたほうがいいかも。でも、たしか向こうの世界ってオーラが扱いにくいはずだからそんなにしなくても大丈夫だよ」

 これからも彼方はオーラを纏っているだけで更に丈夫になったり、絶をすることで回復しやすくなったりはするだろう。
 向こうの世界にとっては十分すぎるほど"強さ"の付加だ。
 彼方にとって悪いことが多かったこの"留学"が少しでも有意義な物になりますように と 香恋は願った。

 最後は綺麗に終わりたい。
 きっといつか美化されて、良い思い出になってくれる。
 それが香恋にとっては始まりだ。

 翌日。
 太陽が高く上る時間を目安に、ふたりはまた山に戻った。
 広い場所で、人目を気にせずに済むほうがよいからだ。
 彼方の服装は昨日と同傾向だったが、かつての修行場とちぐはぐで更に落ち着かなかった。
 恋い焦がれた世界に帰れることも、これから永久の別れが訪れることも、実感が湧かない。

「ここにしよう」

 山頂は平らで木の生えていない十分なスペースを指して、香恋は告げる。
 木の枝で地面に絵を……図を描いて場所取りをすると、練をした。

 大きな扉が具現化される。彼方が手を伸ばして届かないくらい高さと幅で、立派な外見。
 観音開きで、ゾルディック家に聳える試しの門に似た色と形状をしていた。

「今はどれだけ押しても開かないはずだけど、開く時間帯には重くないよ。……試しに押してみないでね、無理やりこじ開けられちゃいそうで怖いから」
「わかった。あとどれくらいだ?」
「20分はあるよ。13時から14時までの間なら何分でもいいんだけど。……最後に、余計なお喋りしよっか」
「うん?」

 雑談なら一日中していたから前置きは今更だと彼方は思った。
 どんなことも楽しそうに話す香恋が"余計な"と断りを入れるのも珍しい。
 その瞳の奥に宿る煌めきは、忘れようとしていた薄ら寒さを思い出させる。

「最後に香恋の話をしてあげる。帰ったらいくらでも調べられちゃうの、悔しいから、お別れの前にあのときの答え合わせをしよう」
「あのときって?」
「『彼方ちゃんはね、中学入学前に一度香恋に会っているんだよ』っていうの」

それはゾルディック家を出てから、ハンター試験を受ける前にあった会話。
謎めいた言い方だったので、奇跡的に彼方の記憶にも残っていた。

「あぁそれか。けっこう考えたけど全然思い出せなかったんだ」
「うん、だって6歳とかだもん。香恋も黒歴史だよ」
「黒歴史?」

 首を傾げる彼方に対し、香恋は覚悟を決めたような顔をしている。
 紡がれた声はいつもより一段低く、いつもより強い響きだった。

「――16年前。天宮流のある道場では跡取りに男の子が望まれていました。しかし娘が生まれたので、代わりに跡取りとして育てられていました」

 その説明を聞いて彼方は、香恋が彼方のことを喋っているのだと当然に思った。
 けれど次の瞬間、おかしな矛盾が挙がった。

「8歳のとき、その家には弟が――望まれていた男の子が生まれます。道場は無事男子を跡取りにすることができました。めでたしめでたし」
「なんだそれ。俺に弟なんていないし、当主は俺に継がせると……」
「うん、だからね、彼方ちゃんじゃないの」

 ぽかんと呆けて混乱したまま、にこにこと笑顔を保つ香恋を見つめて、今までの会話の流れを反芻して"香恋の話"というテーマを拾い上げて、ようやく「まさか」と短い言葉を口にした。 それは有り得ない仮定だったのに、香恋は短く頷いて話を続ける。

「おかしいと思わなかった? 天宮でもなんでもない一般人が独学で念を覚えるなんて。彼方ちゃんとは違うのに……。似ているよね、念と天宮の教えは」
「んな馬鹿なことあるわけない!」

 たしかに全国に天宮の道場はいくつかある。
 けれど、彼方と同じ境遇の女子の存在がありえるかありえないかではなく、それが香恋であることが信じがたい。
 これまで自分は何を見てきたのか、これまでの付き合いはなんだったのかと怒りに似た動揺が湧く。
 彼方の睨めつけにもどこ吹く風で、香恋は笑みを貫く。

「馬鹿は酷いなぁ。香恋は天宮の名前と一緒に身体的な強さも捨てたの。中学に入る前の話。彼方ちゃんと反対だね」
「お前は"桃桜香恋"だろ?」
「母方の姓だよ。養子にしてもらったの。罪悪感を持たれてたんだろうね、我が儘全部聞いてくれちゃった」

 信じられない・ありえないと思うのに、反論は否定される。
 感情のままを香恋にぶつけることもできず、彼方は握りしめた拳から血を流す。

「あ、別に剥奪されて可哀想なわけじゃないんだよ? 彼方ちゃんとは方向が違うけど素質無いわけじゃなかったから、望めば居座れたかもしれない。
でも、元々好きで強くなりたかったわけじゃなかった。
望まれるならなってあげようかなって思ってそのときまでは目指してたんだけど、誰でもいいなら香恋はなってあげない。そう思って、放棄しちゃった。弟の物を奪うのも嫌だし、男の子のほうがふさわしいって香恋が思って香恋が言って香恋が自分で捨てたの。
それから、したいこと全部して、なりたい自分に好きなようになろうと思った」

 彼方の感覚では、天宮に生まれて強さから逃れることは不可能だ。
 あの家で義務を放棄するなんてありえない。
 生まれたときから常に傍にあって、当然の概念だった。別の道なんて考えたこともなかった。
 たまに言われた、"女の子なのに道場の跡を継ぐこと"が不幸だと思ったことはない。
 跡取りが別の誰かに変わっても無関係に彼方は強さを求め続けるだろう。

「自分を大改造するの楽しかったよー。身体の強さ以外に磨ける項目なんていくらでもあるの。中学は遠いところを選んだから今までの香恋を知ってる人もいなくなった。彼方ちゃんも昔の香恋を忘れちゃってた。
普通の女の子ができないことはしないように、彼方ちゃんが判別できないくらい一般人の振る舞いができるようにしたの。ボールが飛んで来ても、怖い人に絡まれても、抵抗しない。そういうの全部彼方ちゃんが防いでくれたから助かっちゃった」

 強さは重石をつけて海に沈めて封印したのだ。
 だからこっちの世界に来ても、身体の強さを磨いたり天宮の力に頼ろうという気は起こらなかった。
 念など、あえて天宮に頼らなくてもよいだけの道具が揃っていたこともあるが、そうじゃなくてもよっぽど生活に困っても、戦う道は選ばなかったと香恋は思う。
 一度捨てたものを拾うなんて、まるで無駄なことをしたみたいだ。まるで捨てたことが間違っていたかのようだから、嫌悪の対象だった。

「捨てようと思っても、身体に染み付いた習慣って消えないんだよね。彼方ちゃんの近くにいると特殊性が隠せてよかった。楽だった。身体の反応を悪くしても眼は肥えていたから、動きがいい人の傍は居心地よかった。訓練のつもりで、少しずつ理想に近づけようって思ったの」
「そんなの、なんのために……」

 強さに焦がれて求め続ける彼方には、わざわざ強さを捨てることが理解できない。
 無防備であることは恐ろしくないのか?

「わからない? そうだね、わかんないかもね。彼方ちゃんと香恋は違うから、わかんなくていいよ。違う人間だもん。
でも覚えておいて。香恋は全部自分で選んだの。この世界も、何も後悔してないよ」

 後悔しないように自分へ厳命している というのが近い。 自分の心一つ、望み一つで香恋はここまで来た。それだけは疑わないし、悔いたりもしない。足場が崩れたら何もできないと思うから。
 守るよりも守られたかったから、外側の強さを放棄した。鎧はもっとずっと内側に装備している。

「そんなの、もっと早く知りたかったよ」
「知ってどうするの? 最後だから話したけど、もうどうでもいいことなの。嫌いたければ嫌えばいいし、言いふらしたければ言いふらせばいいけど香恋は」
「香恋を嫌うわけだろ!? ……少なくとも俺は、香恋のこと、今でも親友だと思ってるよ」

 ――この二年間。
 香恋が彼方に何をしたか。到底許されることじゃない、関係はもう変わってしまったと思うのに。
 本性を露にして、自分の好かれていたと思う要素を全否定したというのに。
 そんなことなにもなかったという体で、嘘をつけない彼方は言う。
 自然と口角がつり上がるのを自覚した、香恋はたしかに救われた。

「それなら大丈夫。人の側面をいくつ知ってるかと仲の良さは関係ないよ。
――彼方ちゃん。今まで楽しかったよ、ありがとう。あの世界に帰ってから、きっと強くなって」
「もう時間か……」

 時計は13時を回っていた。あと一時間なんてケチなことは言わない。もうわかっていることだ。

「うん。香恋は彼方ちゃんの強さと弱さが、大好きだったよ」
「弱さか……。俺はお前の強さに何度も救われてたんだな」

 彼方は扉の前に立って、香恋を見据える。

「香恋、俺を帰してくれて――望みを叶えてくれて、今までもずっと、ありがとう。どうかいつまでも幸せに」
「うん」

 香恋が頷くのを確認すると、彼方は扉と向き合った。
 両手をつくと扉はあっけなく開いて、隙間からまばゆい光が見えた。彼方は光の中に振り向かず入っていく。
 彼方を飲み込みきると、扉は無情に閉まって、香恋だけが取り残された。


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